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pops11

おんがくのように降りつぐこな雪を指さしながら笑うひとたち

損傷した果実のような気がかかりが冬の夕べに約束される

眼底の少しさみしい閃きは萌黄のビーチガラスみたいで

ガラス戸に薄く映っているひとは本をひらいた 髪かきあげて

雪みちに浅い足あとつけながらメロンソーダのグミ分けながら

唐突にふたり笑った 甘い粉にまみれた指をピンと開いて

みるく色に空はこごって初めての雫で頬を濡らしたらきみ

幾つもの色を重ねてきみっぽい準急電車の引き裂く向こう

星々が重いほてりを示すからとても死んで欲しいキス

(2019年11月ごろ、未発表)

淡い骨組み

火のなかの昏く溜まった血のなかの淡い骨組みゆらめいている

ベランダのか細い柵に赤茶けた錆がさかえる今日のひぐれも

傷ぐちがすこし開いているようで日暮れのあかい街並みのよう

葉をおとす木立の道を肩ならべ歩いた 皮膚をこわばらせつつ

自販機の取り出し口に落ちてきたペットボトルにゆれている水

あお空にほどけつづけるわた雲の消え失せそうな部分は光

淡いかげわずか重なっているところ予兆のように密度が濃くて

美容院のガラスにうつる車たちときたま銀をひらめかせつつ

(2019年11月ごろ、未発表)

砂金

ものの翳くらく匂える教室に駆けているひと砂金こぼして

はつ夏の砂金のようにきららかな髪なびかせているはずのひと

薄墨の雲を遥かに張りながら海ばらとうに死んでいるから

海原は鈍くきらめき時々は君を笑かす仕方知ってる

純水のなみだは散って優しげな墓を成しゆく草むらの奥に

身の熱を甘く遺してあかい夕 髪の筋目にひかり編まれて

あかい夕 くらい血汐にひたされてここにいて人よ清い息づき

あかい夕 翳に囲われしらしらとふたりは優しい墓としてある

ほそい手に鉱脈みたく埋まったしら骨たどる目を覚ますまで

たましいの擦れあうたびに散らかった砂金さみしい夏のうす闇

たましいは擦れあうからもうつらい散った砂金を眺めるばかり

(2018年7月ごろ、未発表)

2019年4月

青びかりするトラックが冬の日の住宅街にきわめて露わ

夕かげを静かに浴びて美しい崖のごとしも解される家

この先の闇のうれしさ日を追って解されてゆく家屋のすがた

肋骨のカーブに風の通うほどやさしい夜のせり上がり方

 

 

月代9

いくぶんか濁りを帯びた月光の苦みに気づいていない口づけ

気づいてはいない頬笑み草むらの密な処に秋雨が差す

雨つぶの光またたくほんのりと明るく広い秋空のもと

おそ夏のさわだちのなか何となくひんやりとした手を重ねあう

しろがねの心音のごと澄みながら虫の音ひびく暗やみの家

(2018年9月ごろ、未発表)

ポップス0  

海原に水の破片の散らかって乱反射する いて欲しいひと

海原の軽いかがやき逆光の君らしきもの抱きとめている

きらきらと凍った涙光らせて無表情なひと手をつなぎたい

こわばった海の芯からあふれ出てもう安らかな闇夜がきたよ

(2018年末ごろ、未発表)

近況

ここ数年の作歌は辛いやり方で、自身を追い込むようなものだった。
好きでやってるのだから仕方ないが一首作るごとに髪の量が減る感じ。

最近は新人賞の頃の作り方をもう一度やってみている。
こちらはどちらかというと楽しい。
しばらくは楽しければいいのではないかという気もしている。

「半地下」のころ考えていたこと

引き続き考えるために書く。

私がもっとも影響を受けたのは、岡井隆の他に、加藤治郎、東直子、穂村弘といった歌人である。つけ加えると田中槐という歌人もそうだ。

これらの人達は私の表現の根っこにある。

中学時代から、地方で地道に文語調の短歌を作ってきた自身にとって、これらの人々の口語歌との出会いはショッキングだった。
こんな歌が作りたいとあこがれ、一生懸命口語体の歌を作ってはみたが、それまで作ってきた文語体と比較すると、もうどうしようもなくみすぼらしいものだった。

文語の癖がついていたせいか言葉が自由にならない。文語だとそれなりにできるものが口語でやると見られたものではなかった。

口語になると言葉が自由にならない、コントロールできない感じがあって、それは短歌研究新人賞をとってからも続いた。

また、上に挙げたような人達には口語なのに様式的な美しさのようなものがあったが自分のにはそれがないと思った。

その原因を短歌の様式にたいする不勉強に求めた。
文語調でやってきたものを中途で口語に変えたために、短歌的な表現の様式を身につけていないのだと思った。
短歌表現の定石、型にはまった表現を身につけるために、オーソドクスな作風と思われる作家の歌集を沢山読んだ。

例えば、「枝差し交す」とか「●●顕つ」「桜泡立つ」とか短歌で常套的に用いられる表現の組み合わせの仕方を、身に浸透させれば、様式的に美しい短歌ができると思った。

歌のテーマは「性愛」だった。
常套的なものだが、常套的なものにしか真実がないと思っていた。

大きな方向性としては型にはまった表現と常套性だったが、当然、自身の心情を元に歌を作るのだから、型の中に、常套の中に、独自な情感が滲むはずだった。

この歌集では口語で作るのはあきらめている。できる段階ではなかった。

 

失敗すること2

岡井隆から学んだのはその作風というより、失敗する事の大切さだと思う。
岡井隆は上手い歌人だが、失敗をする歌人でもある。
自身の不得手な表現の仕方に挑んで、結構しくじる。
ひとところにとどまりたくない、失敗は当たり前、自身の表現をどんどん拡張していく。

わたしの学んだことの全ては彼のこういった姿勢ではないかと思う。

岡井隆に学んだ歌人の多くに対して、私は歌が「上手」という印象を持たない。

長くやっていれば、だれでもそれなりに「上手」になれるのが短歌という表現なのに。
彼らはひとところにとどまって同じやり方をトレースし、「上手」い歌を作り続ける事ができないのだ。
完成した時点で、あるいは完成が見えてきた時点で、その表現の手法やテーマは興味の対象から外れ、新しいものへと関心が動きつづける。

それだから私も「上手」ではない、
とは言わない。
といってもちろん「上手」いとも思わないが。
私は失敗することを岡井隆から学んだが「上手」に対する志向性が強い。
民芸品の職人のようにある手法を幾度もトレースして「上手」になるのが好きである。

 

ところで、多くわたくし事をぶつぶつと書いている。
他人の歌も今は引用しない。こういうブログがあっていい。