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鈴木さえ子の「恋する惑星」について

最近、鈴木さえ子ばかり聴いている。
シンセでかっちりと構築された音に、ゆらぐ、少し不安定なボーカルが重なる。

鈴木さえこ HAPPY END

ポップスの様式に沿っていながら、ささやかに新しいものを加えている。
定石を最初から外れていたりはしない。あまり無茶はしないが、ささやかに独自なやり方。

要するに自分はこんなのが好きだ。

同じ鈴木さえ子の作品で「恋する惑星」という、たぶん一番有名な曲がある。
こちらの歌詞は、サエキけんぞうが書いていて、こちらも素敵だ。
以下、抄出。

「恋する惑星」 詞:佐伯健三

だれか 君をさらうよ
めかして おいでよ
Jupiter! 北の空から
チャンスうかがう まなざし
Lovely (Planet)
Lovely (Planet)
君のまわり 僕がまわる

「恋する惑星」は、ユーチューブにもあるが、どうも合法ではないようなので引用はしない。
こんな歌詞をどうしたら書けるのだろう。
軽やかでとても楽しい。

「惑星」だけに「君のまわり 僕がまわる」のかい!
と、誰でも考えつく発想でありながら、陳腐と感じないのは、私たちが内面化している様式がこの歌詞をきらめかせているからだろう。
この歌詞と内面化された様式と相照らしあうのだろう。

Jupiter! 北の空から
チャンスうかがう まなざし

ここも素敵だ。

鈴木さえ子はリアルタイムでは聴いていない。
自身にとっては中高生の頃で、残念だが私は彼女を見つけることがかなわなかった。

ボーカルもとても魅力的。
ふわふわとしていて、肉体を近々と感じさせる。

歌集からもれた歌(半地下)3

よく慣れた背中、太股、足の指。触れると今日も寝入ってしまう

靴下も脱いでしまえば薄闇にさだまり難し二人の身体

倦怠は愛を優しくするものか寝入った人の髪を撫でつつ

深みへと滑らせてゆく指先は怒りのような力を秘めて

たましいの宿った肉の突端が人の気配にひどくざわめく

水中に手を潜らせる細胞の欠片を集めるようなしぐさで

きんいろの栗のごはんを盛りながら待っているのは家のひとたち

黙々とみかんの皮をむいている今日は小さな失望があって

輪郭がゆんわり混ざる肝心なところでふかくつながる秋夜


ささやかなブログとはいえこうして発表するのは、歌集から外しておきながら、根っこの処では、これらが悪い作品とは思っていないからだ。

しかし、仮に自分以外が一首目のような作品を出してきたとしたら、良い顔をしないと思う。
他人がこういった作品を出してきた時、自分が何を言うかも見当がつくから、収録を避けたのだろう。

思い入れの深い歌だ。
どう受け取られるのであれ、作者の思い入れの深さだけは伝わりそうだ。

歌集からもれた歌(神の翼)2

先日あげた「終わりの日」というタイトルは後から修正したもので元は「世界消灯」という一連だった(更に前の原稿を見つけて知った)。
実際は「わらわらと仮想の僕が走りだすしなるペニスを振りまわしつつ」という何やらテンションの高い歌から始まる一連で、最後は、「世界消灯、世界消灯、アナウンス聞こえくる朝制服を着る」という歌集に収めた歌で終わっている。
歌集に入れるかどうかをこの一連だけは岡井さんに聞き、入れなくていいんじゃないか、と言われた覚えがある。冒頭の一首が原因だったのだろうと思う。

同系統のものには、「1999年7の月」がある。同世代になら分かるかの予言をネタにしている。

1999年7の月

さしこみ口にさしこむものが見つかってレベルが上がる上ガル日がくる

千年を待っていました靴下の片一方が降ってくる日を

 

 

歌集からもれた歌(神の翼)1

終りの日

建物がゆっくり倒れてゆくまひるきれいな風が眠りを誘う

システムの飛ばした白いセスナ機が僕の頭上をばくぜんとゆく

海ぎわの発電施設が放射する無色の毒が身体を洗う

破損した腿の中から血の液があふれ出ているまだ生きていた

歩くたび液が出るから階段を汚してしまう傷ついた人

水くんで水くんで人にかけているまだ生きているかも知れなくて

しんでいるひとらの上でみぎ→ひだり防犯カメラの確かな軌跡

標識の矢印のさす方角が僕の歴史のゆきつくところ

老人は影をなくしてしにましたペデストリアンデッキの上で

昼ごろは晴れていました夕方は晴れていました大災害の日

太陽はくりかえし来て表面を一定量の光で満たす

あくる朝影のきわだつ瓦礫から石を拾ってポケットに入れる


自身の歌を読み返している。

歌集からもれた歌(半地下)2

盛夏の手紙

体温は葡萄のいろの室内に確かにあった 指を離すな

一日を雨が濡らしていたらしい胸の底部の湿りに気づく

身体は闇に閉じかね濡れている一つの愛を遂げたる後も

初出「美志 復刊2号」


3首目は
下句が定型的な表現になっている。これは意図しているが、問題は重すぎる事だった。
こういったコメント付きなら発表したい歌。

歌集からもれた歌(半地下)1

ささくれ

たましいの輪郭すこしささくれて。暗く流れる川をみている

その名前だけはセカイの底にある はるかな夏に開く向日葵

8階の小部屋でランチの封を解く チキンの匂いに少し落ち着く

くちづけに次ぐくちづけで現実を防いでいると月がしろいよ

たましいの底部の傷を探りだす手つきで後ろから抱いている

放尿の音がするどく響く部屋 非常にふかく繋がった後

どうぶつの匂いが一瞬きつくなる髪をいじって遊んでいると

口中の蜜を探っている舌のぬくみを思う雪ふる夜に

 

初出「美志 復刊1号」


どんな歌を佳い歌とするかは、その時その時でちがう。
露悪的になる時の素直な感情のうごきを最近は嫌いじゃない。
しかし、数年後は、また違うかも知れない。

2018年12月

コスモスのかたち溢れる ゆれる血を結んだような小さな予感

満月はしろく濁って身じろぎのたびにかすかな息をこぼした

あかい夕 白い手足の絡まりを活けて円かな月球うかぶ

手垢のついた表現について2

自身について考えるために書く。

海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても

率直にいうと、自作でありながら、私はこの歌が好きなのだ。
こういった瞬間は、恋愛の只中にあれば誰しも経験する事だと思う。ある甘やかないっとき。
それでいて、シチュエーションが出来過ぎているから、現実には無かった風景のようでもある。
こうあって欲しいが、永遠に(死ぬまで)かなわない風景。

もう少しこの世界に拘泥して描き切っておきたかった。

類似歌について

ツイッターで武田穂佳さんが以下のような指摘をしてくれた。

少し時間をおいた上で今日はこの指摘について書こうと思う。
私は盛岡の短歌甲子園の審査員を長くしていて、土谷さんの歌は2015年、盛岡四校が優勝した年の優秀作品賞を受賞している。

参照元: 第10回 全国高校生短歌大会(短歌甲子園2015)

まだ君は眠ってるだろう
静けさの
自転車置き場は海に似ている 土谷映里

私のは、その次の年(2016年)の短歌研究5月号の為に作った。

もう君は不在だったかこの朝の駐輪場は銀色の海 嵯峨直樹

  • 土谷さんの「まだ君」とわたしの「もう君」という初句の類似。
  • 二句切れ
  • 初句~二句まで心情の吐露、三句目以降がイメージ
  • 自転車置き場=海という発想の類似

オマージュであったらまだマシだが、作歌している時に、私の頭には土谷さんの歌はなかった(つもりであった)。土谷さんの歌の喚起した美しいイメージや、歌のすがたが私の無意識に沈殿して、作歌の際に引き出されたのだと思う。それが自分はとても怖い。

ちなみに私のは三鷹駅前の駐輪場のイメージで、かつて亡くなった友人への挽歌のつもりであった。

土谷さんは武田さんがSNSで指摘するはるか前に気づいていて、不快に思っていたのではないか。心よりお詫びする。
武田さんのご指摘にも感謝。

盗用かどうかについては微妙なところではないかというのが私の今の見解である。

短歌研究に発表した私の一連を以下に参考までに。

 

アブセンス                嵯峨直樹

艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり

もう君は不在だったかこの朝の駐輪場は銀色の海

今日も見る紅(べに)淡き梅崩えながら曇天の苦の風に馴染めり

マンションの白い光を載せている波あまたなり郊外の川

穏やかな離散を約束されながら瑞々しくもふきのとう咲く

ゆらゆらと血に浸りいる種あって春雨の打つ音ひびかせる

(短歌研究2016.5)

 

わたしの一連に関して言えば、強く主張するほどの独自性はないと言えるし、またそのようにしている。もしかしたら、自身のこの作法が今回のようなことを誘いだしたのかも知れない。
朝の駐輪場=海という発想がそれなりに個性的でありながら、突出していない

 

 

手垢のついた表現について

考えるために引き続き書く。専ら私ごとだが、私のブログだしアクセスも少ないので。

2004年に「ペイルグレーの海と空」を書いた意図は、自身にとっても複雑すぎて霧のようだ。
それが十年以上も私の深い処にひっかかり続けていて、落ち着かないのである。

海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても

冒頭の歌だがあまりに典型的な、型どおりの、しかし、ある型としては出来のいい部類の歌だ(と思う)。
作った当初から型どおりを意識していた。

この数年前に「ポップス」という連作を作っていたのを思い出す。
不倫する男女を主題にした連作で、ステロタイプな男女のどろどろを描いたものだった。
「ポップス」は不義の恋に身を焦がす男女の滑稽さを嘲笑する意図で書いた。気にいっていたがどこかにいっしまった。

「海音に~」の歌は、「ポップス」と同じように型どおりをめざしていながら、少なくとも作者はアイロニーを意図していない。
しかし、状況があまりにティピカルなので意地の悪い読み手がいたとしたら、アイロニーにもなり得るだろう。

海の近くが舞台なのは、ビーチボーイズの影響。
その頃は、型どおり、少しキツイ言い方だと、手垢のついた表現が重要だと思っていた。
ある表現が、手垢だらけになるのにはそれだけの理由がある、その表現が人間の本性にかなったものだからだ。
ザックリいうとこんな事を考えていた。

ついでに、だからこそ、現代詩が嫌いだった(今はそうではない)。