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小田観蛍―「脱落」と「脱走」への意志

※結社誌「未来」に書いた小田観蛍論を以下にあげておく。
小田観蛍は北海道で活躍した歌人、結社誌「新懇」主宰、中城ふみ子を輩出。
岩手県出身、啄木と同級生。
特に同郷人には知っておいて欲しい歌人。

『天象』との出会い

 小田観蛍は、中城ふみ子を生み出した潮音系の結社「新懇」を立ち上げ主宰した人である。前衛短歌の文脈では中城ふみ子の編んだ壮絶な物語の脇役のように扱われる事も多い。
 北海道での厳しい生活を詠んだ『隠り沼』が有名だが、私が最初に出会い、魅せられたのは、『天象』という五番目の歌集だった。

月もわれもいまだ棺(ひつぎ)を持たざれば霊魂冷ゆるごとくさすらふ
霧の湾巨船点在し濃くあはき陰翳は距離の感度となれる
支笏湖(しこつこ)の水蒼々と層なして向きかふるとき鱒は光るか
精悍なる二羽の鷹にてあをぞらに光りひるがへり火と相搏(う)つ

 掲出一首目は比較的有名な歌だが、このような大がかりな世界の捉え方は写実派の中からは出てこないものだろうし、好悪も分かれそうだ。私はと言えばこの手の大上段に構える野心を愛する者である。
 掲出二首目は、私の特に好きな歌で、上句の描写が非常に映像的。深い霧に覆われた港湾に、巨大な船の影が淡淡と幽霊のように浮かんでいる。下句の「距離の感度となれる」という捉え方は直観的で、言葉のロジカルな動きを否み、心の動きのままに言葉を編んでいる。この歌を含む一連、「海の貌」は『天象』冒頭にある。

潮霧はややややに晴れ巨船泊(は)つなほ多くはつ湾内にして
號(さけ)びつつかぶさる波が蒼白(さうはく)の顔々となる幻覚に立ちぬ
虚無の眼の大きく蒼くわれを待つ海あり海をけふも見に来ぬ
来し方も行くへにもまた花ひとつ無きわが道を行かねばならず

 自然の、そして、それを視ている自身の暗部を捉えようとする意志が見てとれる。
 だが、こういった傾向の歌は、この歌集の一側面にすぎない。様々な手法が混在しているのがこの『天象』の魅力でもあるのだ。
 たとえば、同じ歌集にこんな歌がある。

襖越しあそぶを聴けば五つ三つ年にもまして智慧ひびく子ら
かはゆきは二本の乳歯赤ら頬くびれし手足泣けば泣くとて

 いわゆる孫歌というものだが、作者の体温を感じさせてあたたかな気持ちになる。この素直な系統の歌は、第一歌集『隠り沼』の主調であり、一時期は身を潜めるが、『天象』辺りから復活して来た作風である。いわば地の歌なのだ。
 小田観蛍は作風の変遷が激しい歌人で、特にこの『天象』においては全く違った作風が同居していて面白い。この作風の混在、あるいは変遷については、山名康郎がその著者『小田観蛍』(北翔社刊)の中で以下のように指摘している。

観蛍は一つところにどっかと腰を据えることなく常に自分にまといつく古いものを鋭くはらい捨て、脱落、脱走しながら新しい世界を目指して揺れ動き世の大家の如く成熟しなかった。
あとがき

 山名の指摘通り、安定を避け続けた所にこの作者の魅力がある。
 歌が巧みな人なので一つの方法に殉ずる事もできただろうが、生涯それを選ばなかった。以下、小田観蛍の作風の変化を生前に出された六歌集を紹介しながら追っていきたい。

『隠り沼』の作風

 『隠り沼』が刊行されたのは大正八年、観蛍三十三歳の頃。北海道富良野の厳しい自然の中にあって妻を亡くし、男手ひとりで愛児を育てる姿が哀切な歌集である。歌集前半には愛する妻と子に恵まれた小生活が描かれる。

子を産みてすやすや眠る面瘠せの蚊帳ごしに白くうつくしくみゆ
振り放(さ)けて見ればまばゆき薄ら雲名残の雪はマントに降るも
我が井戸に水汲み去りし足の跡夕照り寒く雪に残るも
行き暮るる雪の里道そこここに子の泣く声の身にはこそ沁め
小夜くだちひとりめざめてしみじみと吾子の寝顔をみたりかはゆく

 これらの歌に詠まれるようなつつましい小生活が「凶事」と題された一連から一変する。

吾がわく子何知るべきか抱(だ)かれゐて母が柩をよろこび見るも
夕まぐれ子を負ひ立ちて玻璃戸ごし見る裏山の雪はさびしき
吊りし灯のひかりおぼほし夜のくだち厨の土間に襁褓(むつき)あらふも
叱られて母を呼び泣くをさな子に母亡ければぞ我れも泣かゆる
たちどまり見入る道辺の流れ水人のいのちははかなかりけり

 愛する妻の死によって観蛍を襲ったのは喪失の悲しみだけではなく、家事、とりわけ育児に係わる仕事であった。妻の葬儀から始まり、家事に追われ、子育てに追われる歌が多いのが特徴である。教員としての仕事も続けているのだから、いわゆるシングルファーザーとして多忙をきわめる事になる。
 この歌集を特異なものにしているのは、家事全般をいきなり背負う事になった者の労苦を非常に率直に、直截的に表現している点であろう。

『忍冬』の作風

 観蛍の第二歌集にあたる。上梓は昭和五年、観蛍四十四歳。それ以前に『「隠り沼」以後』があるが、こちらは百首あまりの小作品集で作風は『隠り沼』の延長線上にある。序数歌集にも加えられていないようなのでここでは取り上げない。『忍冬』から数首ひく。

うち見やる月のひろ野の末遠くしづみて山の浮かび出でたる
沼底にうつれる月は清くしてものにもつかず渡るなるかな
木の影のおのおのうつる西障子日のしづかさの沁みる冬なり

 このような一つの形式に殉じた歌が大勢を占める。自然を題材にした歌はどれも巧みに韻律を整えられているが、その中に時折、人事を題材とした歌が入ってくる。

朝月におもひしのぶもかなしくて卵のからを捨つるうら藪
ゆるやかに御名(みな)をとなふる声そろひ戸口の下駄にかかるこな雪
新月の空青々と暮るれどもひとりぼそぼそと襁褓(むつき)あらへり

 一首目は、母の死、二首目は、父の死、三首目は、再婚した妻が病を得て実家に帰った折の歌。ここに至ってもこの人はオムツを洗うのである。この妻の実家療養は長引き、妻が亡くなるまで観蛍は子供の世話に追われる事になったようだ。子育ての労苦を味わったせいか、後年の歌集においても子供を題材にした歌はいきいきと生彩を放ち、多くの男性歌人のそれとは一線を画す。
 『忍冬』で観蛍の短歌はある形式における完成を得ていると思う。しくじりが無く安定しているのである。しくじりがない事を逆から見れば、突出した作品が減り、面白味が減るという事でもあるだろう。この作者はその事に自覚的であって、どうやら満足していないようだ。跋文にはこうある。

私は此の歌集を後にして、更に不断の精進に鞭うたうとする。(略)私は猶ほ踏み入るべき爾後の途に閉塞を感じないばかりか、一そうな希願と踊躍とを禁じ得ないのである。

『蒼鷹』の作風

 昭和十九年、戦況が逼迫した状況の中で出された歌集である。観蛍五十八歳の第三歌集。

屋根の雪積むにまかせて垂れさがるつららは太し暗くこもれる
甲虫の飛べば浮かびて池の面に口そろへたる緋鯉の本能
こくこくと虧食(きしょく)に繊き日輪の肉眼にさへ見ゆるなり今
北斗七つ照れるゆふぞら霽れとほりうつつににごる霊を濯がす
天の川いよよななめに冴えて来て一線白き浪の突堤

 掲出三首目は、日蝕が題材。
 安定している点では、『忍冬』と同じだが、『忍冬』は微かなものへの志向性が強かったのに対して、こちらは雄大さ、あるいは強さへの志向性が強い。『忍冬』が「静」を志したとすればこちらは「動」という様に大まかに分ける事もできそうだ。
 この歌集でも子供を詠んだ歌はやはり格別心に深く沁みる。

荒ら海のおとぞきこゆる父われのかひなに寝ねてあどけなき顔
いとし子やひとり石蹴りあそべるに掩ひかぶさる世の濛(くら)き雲
手筥などそこはかとなく残れどもわが子を家に見むよしもなし

  二首目は暗い時局を反映、三首目は三女が嫁いだ時の歌で、その寂しさを抑制的に詠んでいる。また、時局を反映した歌では以下のようなものもある。

一つ緒によろづ代かけてつらぬけるみかどのくには弥栄(いやさか)なるらし
警報のひびきを呑みて港都いま船の灯もなき底冷えの闇

  一首目の擬古調はこの時代ならではだが、この歌人の歌の巧みさは本物だろう。思ったよりは皇国賛美の歌が少ないが、もしかしたら生前に削ったのかも知れない。

『暁白』の作風

 戦後はじめての歌集で、観蛍六十五歳の第四歌集。昭和二十六年刊。この辺りから一つの歌集に様々な詠み方が同居しはじめて面白くなってくる。作者本人も跋文で以下のように書いている。

今度のこれは、傾向に於いて遥かに変移的であるといふことである。(略)尚ほ継続しさうであつた自分一個の作風のうへにも、かなりに鋭い反省を加へ、(略)現代といふ時代を生き抜かうとする態度に立つに至つたのである。

 どのように「変移的」であったのか。幾つか歌を挙げてみる。

ビル街の切る一ところ色感の濃き蒼海と黒耀(て)る船と
向日葵は黄金盤をならべ立ち朝から昼のごとく陽暑し
此のあたり門はありしとたたずみて星は照れども五十とせ過ぎぬ
距離感の近き銀河をあふぎ居り身は北ぐにに住みふさふらし

 二首目は「黄金盤」という把握が面白い。観蛍独自の表現か、あるいは当時流通していた表現だったのだろうか。
 三首目は郷里に帰った時の歌。
 観蛍は、明治十九年、岩手県久慈市(旧九戸郡)に生まれている。同年生まれには、岩手県盛岡市(旧日戸村)生まれの啄木がいる。更に言えば、その習作期には啄木が参加していた若山牧水の「創作」にも参加しているのだ。(『小田観蛍』)
 同郷の同級生、更に同じ文学を志す者として啄木がいるという事実は、この歌人の表現に大きな影響を与えただろう。観蛍はこの頃すでに北海道新聞の歌壇選者を経験し、同地域で様々な賞も得ている。しかし、北海道の大家になっても、啄木という大きくなり過ぎた存在がこの人を揺るがし続けたのではないか。
 この点については、次の歌集、『天象』に啄木へ言及した歌が参考になる。

皆すぐれ霊(たま)かがやくにわれのみは鈍(にぶ)きを鍛へなほも在りつつ

 これは「啄木歌碑」と題された一連の作品で、以下のような詞書が付されている。

釧路市に啄木歌碑を訪ふ。碑歌は伯父の門人故佐藤男爵の揮毫、裏面の碑文は畏友石川定氏の物するところなり。三人とも我と郷国を同じうす。

 この歌の「皆すぐれ」は、もちろん歌碑の建立に尽力した同郷人と、歌碑の主人公たる啄木にかかる。挨拶歌としても卑下しすぎであって、同郷の優れた人達が啄木という歌人を中心に集まった事に対する気後れのようなものを感じる。しかし、同時にこの人は「鈍(にぶ)きを鍛へ」ていると言っていて、自身の歌作について諦めてもいないのである。
 掲出歌にもどる。四首目の「距離感の~」の歌は、歌碑がある。この歌についても山名康郎が『小田観蛍』の中で言及している。

終焉の地・小樽の天狗山麓三角山の歌碑に刻まれている〈距離感の近き銀河をあふぎをり身は北ぐにに住みふさふらし〉には中央から遠く離れた北の地に住んで生涯、華々しく歌壇に名を連ねることなく一地方歌人の存在に甘んじた口惜しさと、不退転の決意が込められていて思いは深い。

 山名の指摘どおり、中央への屈折した思いが、彼の表現を安定的に一つの場所にとどめて置かなかったのではないかと思う。そのせいか、この歌人の作品は六十五歳を過ぎてから、山名のいう「脱落、脱走」が増え面白くなってくるのである。その晩年に至っても啄木歌碑の歌にある「鈍(にぶ)きを鍛へ」続けるのだ。

『晩暉』の作風

 『天象』については冒頭で触れたので、六番目の歌集である『晩暉』について触れる。『晩暉』は昭和三十八年、観蛍七十七歳の歌集で、生前に出された『小田観蛍全歌集』(新星書房刊)に組み入れる形で発表された。気負いのない作品の中に時折、妖しい世界への志向が現れる。

日の照りてはららぐ雨に鈴なりの柿つやつやと赤きふる郷
雨まじりいや咲く風に花コスモスしばし閃けど外の闇深し
一湾は冷感となりアパートの幾棟の窓を陽は焼き焦がす

 『忍冬』『蒼鷹』の意匠そのもののような作風から脱却し、不安定さが増していると思う。破綻が増え、破綻のすき間からこの作者の息づかいが漏れてくる。『「私」といふ一個の物』(『天象』跋)の本当の姿を追い求め、完成や成熟を拒んだ作者の辿り着いた作品群である。
 掲出一首目のように自身を育んだ風土である故郷を詠んだ歌が多いのもこの歌集の特徴でもある。最後に帰郷の際に詠んだ歌から一首。

空の陽に大岩むらの久慈川はとどろきしぶき虹を立て立て

(初出、未来2017年6月号)

歌集からもれた歌(半地下)2

盛夏の手紙

体温は葡萄のいろの室内に確かにあった 指を離すな

一日を雨が濡らしていたらしい胸の底部の湿りに気づく

身体は闇に閉じかね濡れている一つの愛を遂げたる後も

初出「美志 復刊2号」


3首目は
下句が定型的な表現になっている。これは意図しているが、問題は重すぎる事だった。
こういったコメント付きなら発表したい歌。

手垢のついた表現について2

自身について考えるために書く。

海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても

率直にいうと、自作でありながら、私はこの歌が好きなのだ。
こういった瞬間は、恋愛の只中にあれば誰しも経験する事だと思う。ある甘やかないっとき。
それでいて、シチュエーションが出来過ぎているから、現実には無かった風景のようでもある。
こうあって欲しいが、永遠に(死ぬまで)かなわない風景。

もう少しこの世界に拘泥して描き切っておきたかった。

類似歌について

ツイッターで武田穂佳さんが以下のような指摘をしてくれた。

少し時間をおいた上で今日はこの指摘について書こうと思う。
私は盛岡の短歌甲子園の審査員を長くしていて、土谷さんの歌は2015年、盛岡四校が優勝した年の優秀作品賞を受賞している。

参照元: 第10回 全国高校生短歌大会(短歌甲子園2015)

まだ君は眠ってるだろう
静けさの
自転車置き場は海に似ている 土谷映里

私のは、その次の年(2016年)の短歌研究5月号の為に作った。

もう君は不在だったかこの朝の駐輪場は銀色の海 嵯峨直樹

  • 土谷さんの「まだ君」とわたしの「もう君」という初句の類似。
  • 二句切れ
  • 初句~二句まで心情の吐露、三句目以降がイメージ
  • 自転車置き場=海という発想の類似

オマージュであったらまだマシだが、作歌している時に、私の頭には土谷さんの歌はなかった(つもりであった)。土谷さんの歌の喚起した美しいイメージや、歌のすがたが私の無意識に沈殿して、作歌の際に引き出されたのだと思う。それが自分はとても怖い。

ちなみに私のは三鷹駅前の駐輪場のイメージで、かつて亡くなった友人への挽歌のつもりであった。

土谷さんは武田さんがSNSで指摘するはるか前に気づいていて、不快に思っていたのではないか。心よりお詫びする。
武田さんのご指摘にも感謝。

盗用かどうかについては微妙なところではないかというのが私の今の見解である。

短歌研究に発表した私の一連を以下に参考までに。

 

アブセンス                嵯峨直樹

艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり

もう君は不在だったかこの朝の駐輪場は銀色の海

今日も見る紅(べに)淡き梅崩えながら曇天の苦の風に馴染めり

マンションの白い光を載せている波あまたなり郊外の川

穏やかな離散を約束されながら瑞々しくもふきのとう咲く

ゆらゆらと血に浸りいる種あって春雨の打つ音ひびかせる

(短歌研究2016.5)

 

わたしの一連に関して言えば、強く主張するほどの独自性はないと言えるし、またそのようにしている。もしかしたら、自身のこの作法が今回のようなことを誘いだしたのかも知れない。
朝の駐輪場=海という発想がそれなりに個性的でありながら、突出していない

 

 

手垢のついた表現について

考えるために引き続き書く。専ら私ごとだが、私のブログだしアクセスも少ないので。

2004年に「ペイルグレーの海と空」を書いた意図は、自身にとっても複雑すぎて霧のようだ。
それが十年以上も私の深い処にひっかかり続けていて、落ち着かないのである。

海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても

冒頭の歌だがあまりに典型的な、型どおりの、しかし、ある型としては出来のいい部類の歌だ(と思う)。
作った当初から型どおりを意識していた。

この数年前に「ポップス」という連作を作っていたのを思い出す。
不倫する男女を主題にした連作で、ステロタイプな男女のどろどろを描いたものだった。
「ポップス」は不義の恋に身を焦がす男女の滑稽さを嘲笑する意図で書いた。気にいっていたがどこかにいっしまった。

「海音に~」の歌は、「ポップス」と同じように型どおりをめざしていながら、少なくとも作者はアイロニーを意図していない。
しかし、状況があまりにティピカルなので意地の悪い読み手がいたとしたら、アイロニーにもなり得るだろう。

海の近くが舞台なのは、ビーチボーイズの影響。
その頃は、型どおり、少しキツイ言い方だと、手垢のついた表現が重要だと思っていた。
ある表現が、手垢だらけになるのにはそれだけの理由がある、その表現が人間の本性にかなったものだからだ。
ザックリいうとこんな事を考えていた。

ついでに、だからこそ、現代詩が嫌いだった(今はそうではない)。

恋の歌を中心とした作品集

恋の歌で構成された作品集を編みたくて、最近、2000年代の作品を見直している。

短歌研究新人賞をとった「ペイルグレーの海と空」の頃。2004年の近辺。

過労死寸前まで追いこまれ、逃げるように仕事を辞めた時期だ。

ビーチボーイズのペットサウンズばかり聴いていた。

一日に何度も何度も聴く。それが毎日。

同居人はそれでこのアルバムが大嫌いになった。

呼気のたびに哀切な感情が雲のように沸く感じ。それでいて少しも押しつけがましくない感じ。

 

単純でいて単純でいてそばにいて単純でいてそばにいて

 

この歌はペットサウンズのDon’t Talk (Put Your Head On My Shoulder)という曲からインスパイアされた。

インスパイアとは大げさだな。

私はペットサウンズに魅せられるあまり、ペットサウンズをやりたかった。

(単純でいて‥はいい歌か?と問われると韻律に稚さが漂い微妙な部分がある。
だがその稚さは得がたいものだと今では思う。)

 

心身をおかしくして分かった事があった。

それ以前の冷笑的であったり、皮肉っぽい作品が自分にとって何のリアリティも無いという事である。

斜にかまえた態度は私の一時期の自意識を満足はさせたが、暴力的な現実に対してはバカバカしいほど無力であった。

(眠いのでやめるが続く、かもしれない)

歌集「みずからの火」への言及一覧

今年だした第三歌集について、ありがたい事に多くの方に言及いただいております。

ブログ、サイト等で触れていただいたものを順不同(ほぼグーグルで調べた順)にてリンク
SNSで触れていただいた方にもありがとう!

さいかち亭雑記ーさいかち真さん

▼存在しない何かへの憧れー工藤吉生さん

眠らない島ー岩尾淳子さん

壜ー高木佳子さん

馬場秀和ブログー馬場秀和さん

日々のクオリア(砂小屋書房)-染野太朗さん

短歌ブログ 浮遊物ー丸地卓也さん

《話題の新刊 (週刊朝日)》ー後藤明日香さん

 note-みずからの火」を読む 白井健康さん

 noteー嵯峨直樹 『みずからの火』(角川書店) とみいえひろこさん

まだ、あるかも知れません(まだあるよ!という方、連絡フォームにてご連絡いただけたら助かります)

 


みずからの火、嵯峨直樹

 

次は恋愛だけの歌集を編みたいなあと思ってます。

 

amazonの「みずからの火」のレビューについて思ったこと

amazonの「みずからの火」のレビューに佐野波布一氏がレビューを寄せています。

>>amazon「みずからの火」レビュー

率直にいうと、文学友達の批判を聞いている感じがしました。
少々人恋しい、懐かしい感慨めいたものもあります。
実に丁寧に読み、批判している、その熱に感動すると共に「そうじゃないんだよね」という思いも多く沸きました。
わたしの歌に対する批評について、言いたい事もありますがここは最小限にとどめます。
短歌は詩であると同時に歌であること、重複表現はわざとやる場合もあるということ、このくらいです。

このレビューは以下で締めくくられています。

しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、
そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、
僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。

この辺りは「文学に明日はない」と文学の明日の心配までされています。
私の表現を短歌界では「評価している」方が多い事を前提とされているようですが、これは間違いです。

挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさ」。

この点↑は、私が短歌の世界で幾度となく批判されてきた事ですので、短歌界は健全です。

それにしても、この言葉は今まで批判された方の中でもっとも的確で丁寧な表現かも知れません。

といって私はこの手の純粋性への志向が強く、批判されても今さらやめられる類いのものでもありません。
文学の未来などに関わりなく、好きなようにやるだけです。

あと「40代にもなって」は余計でしょう!
年齢は関係ありませんよね。

それと、★が二つというのは何とかならないものか。
私のAmazonのレビューは以前の歌集を見て分かるとおり、レビューがつく事が少ないので、一つのレビューでこれをやられると非常に目立ち痛いのです。

もしこの記事をお読みならせめて★を三つ、欲を言えば四つにしてください。

「世代間の断絶」とは何か 

1、「短歌の虚構問題」

最近の話題といえば、「短歌の虚構問題」だろう。
昨年の短歌研究新人賞は、父親の死を題材にした石井僚一が受賞した。

父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を

ふれてみても、つめたく、つめたい、だけ、ただ、ただ、父の、死、これ、が、これ、が、が、が、が、

火葬炉の釦は硬し性交の後(のち)に生まるる我等を思う

ネクタイは締めるものではなく解(ほど)くものだと言いし父の横顔

 「父親のような雨に打たれて」短歌研究2014.9

 ところが、作者がこの父は実は存命であり死んだのは祖父だったと地方新聞に打ち明けた事から騒動ははじまる。最も熱心にこの一連を推した加藤治郎は、その責任感から新人賞発表の次の号に「虚構の議論へ」という一文を寄せている。

私は、選考委員の一人であり当事者である。「短歌研究」の読者への説明責任があると考える。

「虚構の議論へ」短歌研究2014.10

 自身の責任を明確にした一文で、率直に評価すべきだろう。新人というのは、短歌の世界でもっとも弱い存在である。新人賞の受賞作が出る度に、その瑕疵を批判する人は多いが、選考委員を批判する人はどういうわけか少ない。新人の作品は、もとより選考委員によって選ばれなければ俎上にも載らないのだ。弱い新人を下手だ下手だといって(当たり前だ。新人なのだから)、おしまい、という事で済まされる問題ではないのは明らかだろう。

受賞者の歌論が展開され、虚構の議論が復活するかも知れない。すべて可能性である。

 「虚構の議論へ」短歌研究 2014.10

 加藤は、この一文をこう結んでいる。受賞者の歌論はいまだ展開されていないが、「虚構の議論へ」という加藤の狙いどおり「短歌の虚構問題」について世代を問わず活発な議論が出てきている。二十代、三十代の口語短歌と中高齢層との断絶が言われて久しいが、この「短歌の虚構問題」は世代間を繋ぐ触媒として機能しはじめているようである。

2、世代間の断絶とは何か

角川の短歌年鑑(平成27年版)では、「短歌は世代を超えられるか」という座談会を行っていて面白く読んだ。参加者らが、「近代~現代短歌の流れを汲む歌」と思うものと、「これまでの流れとは切れていると感じる歌」を持ち寄って議論している。二十代、三十代の「これまでの流れとは切れていると感じる歌」をどう扱うかを考えさせられる好企画である。
こういった世代による価値観の違いをどう超えるのか。そのヒントになるのが短歌研究11月号の「作品季評」である。
森本平が、若手に人気の吉岡太朗の歌集『ひだりききの機械』を小池光といっしょになってこき下ろしている。あまりにひどい言いようなので若手からの反応は最悪だが、こういった率直さだけが異なる価値観の者同士のコミュニケーションの端緒ではないだろうか。
若手と関わるのが面倒くさいが為の黙殺、若手の歌が分からないのは恥ずかしいので分かったフリ、若手の歌が苦手なゆえの無関心の装い。これらが世代間の分裂を強化させてきたと思うのである。

3、二つの共同体

学生短歌会を中心として、インターネットを中心に交流を深める若手歌人。団塊より上の世代を頂点とし、団塊の世代を中心とする歌壇の共同体。この2つの共同体が分断しているのがここ最近の最も深刻な問題だろうと思う。
インターネットや大学のサークルからは、若者が口語短歌を短歌だと思って流入してくる。他方で、主に新聞歌壇やカルチャーセンターを経由して高齢層が万葉集などの和歌を短歌だと思って流入してくる。短歌の高齢化が長く叫ばれているがそれは違う。若い頃から短歌をやっていた人が老いるのではなく、若い頃関心がなかった人が高齢になって相次いで流入してくるので、歌壇は常に高齢層が厚い。

私の印象では、この二つの共同体はどちらもかなり内向きである。お互い関わらない分には、どちらもそれなりに楽しくやっている。しかし、もうお互い無視をできる間柄でもないだろう。両者を繋ぐ事ができるのはただただ率直さであろうと思うのだ。

横浜歌人会会報第111号(2015年1月)

 

同人誌「美志(復刊5号)2014.3月号」に寄せた批評文 

コミュニティから見る短歌史の生まれる場所            嵯峨直樹

 

ここに掲載するのは、二〇一三年短歌研究評論賞に応募した批評文に加筆、修正したものである。「歌壇」だとか、それを慎重に言い換えて「短歌界」だというが、肝心の、当該共同体に関するイメージが個々人によってあまりにバラバラなために議論が深まらないと常々感じていた。

人は自身の立っている場所のめぐりからモノを考える傾向があるから、「歌壇」に対するイメージはある程度バラバラでも構わないとは思うのだが、あまりにも、バラバラ過ぎると議論に支障をきたす。

また、この共同体の生む「短歌史」というものに対しても、それが語られたり、議論がされたりする度にその根拠の危うさについて思う事が多い。端的に、それは誰が書いたのか、その正統性は何が担保するのか、という事である。こんな風に思うようになったのは、インターネットという新しいメディアの登場とやはり無関係ではないだろう。世の中の階層性が崩れ→権威が成り立ちにくくなり→フラット化が進行している、とはよく言われるが、権威が減退してゆく時代に「短歌史」は果たしてこれからも機能するのだろうか。また、そもそも「短歌史」はこれからも書かれるのか。書かれるとしたらどういった形なのか。もしかしたら、「短歌史」というものは、ある特定の時代の共同体がその維持に必要とした物語に過ぎず、これからは必要とされないかも知れないのである。

前置きが長くなった。本論は、話題になった詩人の金井美恵子の批評をネタに展開している。深沢七郎の風流夢譚論を口実に書かれた歌壇批判で、火の付きやすいわたしは当初、腹を立てて読んだ事を告白しておく。高島裕も「黒日傘」という個人誌で「出直して来い。」(『短歌のために』)とまで言っていたが、(あまりの言いように私は笑ってしまった。気持ちが分かったのである。)冷静になって読むと、実のところかなり的を得ている批評である。最も高島の場合は、わざと冷静さを欠いているのだろうが。

 

1、   コミュニティから現代短歌の構造を読み解く

 

詩人の金井美恵子による「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので『風流夢譚』で短歌を解毒する(以下「『風流無譚』で短歌を解毒する」」(KAWADE道の手帳 深沢七郎)は『風流夢譚』の批評の名を借りた歌壇批判である。歌会始めを頂点とし、その底部に新聞歌壇をはじめとする「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」(金井)を持つ短歌のヒエラルキー構造を深川七郎の「風流夢譚」を引き合いにだしながら痛烈に揶揄している。

すでに話題になっているが、島田修三は「偏見まみれの詩人が知ったような御託を並べてくれるじゃないの、程度に私は軽くみていたが、後で冷静に読み直すと、ごもっとも、と言わざるを得ないところが多々あって、深いもの哀しさに襲われたのであった」(うた新聞 二〇一三年四月号 いりの舎)と留保付きで認める発言をしている。こういった挑発を目的とした文章に議論が起こってしまった事自体、金井の術中にはまってしまったと考えてよいだろう。ロジックの破綻の目立つ文章だが、外部から短歌の世界がどう見えているかの典型例として、私は興味深く読んだ。

近年、特にインターネットの登場以降、現代短歌が依って立つコミュニティが多様化している。多様化というのは、不明瞭化でもあり、自身が発表している作品が誰に届く可能性があり、誰に対しては届かないのか、が非常に分かりづらい状況にある。また、それぞれのコミュニティ同士で作品の評価軸が異なるため、どういった歌を良いとし、良くないとするのか、コンセンサスが得づらい状況にある。例えば、「切実さ」といったタームが最近流行しているが、価値観が多様化しすぎて、「切実さ」といった漠然とした言葉しか共有し得ないの程の状況だと言っても良いだろう。

私達歌人が意識的、無意識的に依って立つコミュニティとは現在、どのような状況にあるのか。金井の文章に沿って考えていきたいと思う。目新しい事はないかも知れないが私達の依って立つ足元の自明性が揺らいている以上、それを一つ一つ丁寧に確かめていく作業は無益ではないと考える。


2、「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」

 

金井の「『風流夢譚』で短歌を解毒する」が面白いのは、新聞の投稿欄、いわゆる新聞歌壇を「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」と名付けている所である。この上に「プロというのか専門家というのか歌人」(『風流夢譚』で短歌を解毒する)がおり、彼女の見立てでは、更に上に皇室があるという図式である。歌壇のヒエラルキー構造を問題化しているのであるが、一つ一つ見ていきたい。金井の評論(?)を元に、私自身がそれを敷衍していくというスタイルで書いてゆく。実際の彼女の文章をぜひ読んでいただきたいのだが非常に読みずらく、真意もつかみづらい。注意して欲しいのは、例えば本節で取り上げる「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」というのは彼女の発案の魅力的なフレーズだが、その内実に関する記述はすべて私の考えだという事である。後節も同様である。あくまで、金井美恵子の文章をもとに私(嵯峨)が考えた事だという事を留意して読み進めていただきたい。

金井がいう「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」は、非常に流動性が高い集団である。短歌を趣味として始めようと思った人、人生の重大事に遭って短歌ができた人、カルチャーセンターに通いはじめた人、誰かの短歌作品を読んで感動した人などなどが次々と流入してくる。他方で、忙しくなってなんとなく止めてしまったり、飽きてしまったりなどで出ていく人も多い集団である。この出入りの度合いについては、集団ごとにクラス分けする事ができるだろう。都度都度で立ち上がり解消する短歌コンクールは流動性が高く、新聞短歌、テレビの短歌コーナー、カルチャセンター、ソーシャルネットワーキングサイト上の短歌コミュニティ、結社……といった具合に流動性は減ってゆく事が想像できる。

これらのコミュニティはそれぞれ支配する倫理が異なる。すなわち、五七五七七になっていればそれでよい、という場合もあるだろうし、短歌としての出来を重視する場合もあるだろう。これら、価値観の異なるコミュニティは、一つ一つ離れて存在しているのではなく、お互い重なり合いながらひしめいている。例えば、カルチャーセンターで講義を受けながらネットのSNSで発表をする、結社に属しながら新聞短歌に投稿、など2つ、3つのコミュニティに所属している人もかなり多い。

金井が深く関係している現代詩の世界と短歌の世界の違いは、この「共同体の底辺を支えている」「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」の存在が大きい。現代詩の「共同体の底辺」を支える可能性のあったものとして、女子中高生を中心とした恋愛の詩を主調とした「ポエム」の世界や人生訓的な詩の世界があり得ただろう。が、現代詩はこれとの関係を持たない事で成立している。このアマチュアを主体とした膨大な分母を含み持つ事で、短歌や俳句は、新聞や雑誌に大きな投稿欄を持つことができている。短歌、俳句と他の文芸を別つ最も大きな点がこの巨大なコミュニティ群である。仮にこの巨大コミュニティ群が無かった事を考えてみると分かり良い。ある種、雑音が少なく純粋な文学として現代短歌は成立し得るだろうが、ジャンルとしての存在感は減退を免れえないだろう。後述するが、新人の育成、教育といった短歌、俳句特有の、あたかも公共機関のような考え方は、この巨大な分母の故に成り立っている。
3、結社

 

短歌の「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」の中で特権的な位置を占めてきたのは、結社と呼ばれる特定の歌人を中心に置くコミュニティである。この結社に関しては、金井の「『風流夢譚』で短歌を解毒する」にはさわり程度にしか出て来ないが、新聞歌壇やカルチャーセンター、ネットのSNSや学生短歌よりも高い位置にあり、「プロというのか専門家というのか歌人」を排出したり、下支えする重要な役割をはたしている。

この結社という組織体は長く、新聞歌壇やカルチャーセンター、更には学生短歌をきっかけに短歌をはじめた人達の受け皿になってきた。短歌を始めた人を繋ぎとめる役割をはたし、中心となる歌人の価値観の伝承を役割としてきた。

結社に期待される役割については、篠弘が二〇一三年「うた新聞」五月号の短歌結社の特集にかなり率直に書いている。土岐善麿が昭和四十七年に「八雲」に書いた「結社消滅論に就いて」をまとめながら自論を述べているのだが、ここで重要なのは、土岐善麿も篠も新人養成機関としての短歌結社を強調している事である。特に篠は、ここで「有力歌人は新人を捜し、新人を育成する使命を持たなくてはならない」(新人を育てる責務)と明言している。篠のこの論は、特に極端なものではなく、結社に所属している歌人なら無意識に共有している倫理でもあろう。これは、短歌および俳句に特異な倫理観といってよい。他の文学、現代詩や純文学に新人を育てるといった倫理観が無いとはいわないが、短歌、俳句のそれの強固さは異様とも言える。これは「歌壇」が前述の「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」を含み持っているからに他ならない。「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」から新人を発掘し、結社組織で育成、より上位の「プロというのか専門家」のコミュニティの一員を創るといった図式である。

篠は先の短評の中で、「(総合誌の)「短歌」の投稿者の四割近くが、結社に所属しない人たちである事に驚く。」と書いているが、結社組織は近年、減退の一途をたどっている。

今井恵子は、現代短歌新聞二〇一三年五月号の時評の中で、光森裕樹がウェブ上に公開した「短歌結社・同人誌などの状況(1980年と2012年の比較)」というブログ記事(http://www.goranno-sponsor.com/blog/2013/02/12-198019802012-19802012.html

をひいて、結社組織の急激な弱体化について書いている。光森裕樹のブログ記事とは以下のようなものである。

データのもとになっているのは、1980年版と2012年版の角川短歌年鑑の住所録。この二つを比較する事で、約30年間の結社組織、同人誌の組織率の変化をあぶり出している。1980年と2012年では角川のデータの計算方式が違っていたりして、厳密ではないが、「細かな数値に拘泥されることなく、おおまかな傾向をつかむ助け」(光森)になる貴重な仕事である。

「総数としては、335結社→260結社と約20%減少」してはいるが、元々結社の高齢化が言われているし、無くなった結社もちらほらと見てきているので、これは予想していた通りと言える。今井が同時評で「少なからず驚いた」としているのは、会員数の推移の試算の方で、

 

「全体」 : 1980年:131,808 会員 → 2012年:推定 70,636 会員 (46%減)

「結社」 : 1980年:108,520 会員 → 2012年:推定 58,874 会員 (46%減)

「同人誌など」 : 1980年:23,258 会員 → 2012年:推定 11,763 会員 (49%減)

 

というものである。ちなみに、この試算は、角川短歌年鑑の「1980年の住所録には「会員数」、2012年の住所録には「出詠者数」が記されている」(光森)ため、会員中の出詠者数を「結社誌「塔」2012年12月号の「出詠率」は80%」を根拠に80%と推定、1980年の会員数の統計に補正を加えている事に留意しておくべきであろう。

今井は光森のこのデータをこう引用したのち「かつての結社における求心力を思うと、暗澹とした気持ちになる」と述べ、「結社をふたたび活発な創造の場とするため、新しい仕組み作りが望まれる」と結んでいる。

「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」、歌人の育成機関としての側面を持つ結社、その更に上には、金井のいうところの「プロというのか専門家というのか歌人」が存在する。「上」と私が書いているのは、教育する側、教育される側といった関係性の事をさしている。

 

4、「プロというのか専門家というのか歌人」

 

「『風流夢譚』で短歌を解毒する」の金井は、「プロというのか専門家というのか歌人」を新聞歌壇の選者としているが、もう少し広く、結社組織や同人誌から実力の承認を得た歌人と想定した方が分かり良い。承認のされ方には種々あるだろう。何かの賞を取るといった形が一般的で、こういった賞のたぐいは、承認の過程の可視性によってその正統性を保っている。

これら「プロというのか専門家というのか歌人」は、商業出版物である総合誌に作品を発表したり、様々なコンクールで選歌をしたり、カルチャーセンターで講師を受け持ったりしている。

「プロというのか専門家というのか歌人」の人数はどれくらいいるのだろうか。専門家とか、歌人か否かという区分けは不可能に近いのだが、ざっくりとした目安として、三〇〇〇人という数字を出してみる。これは角川短歌年鑑に掲載されている歌人の人数である。異論はあろうが、ここで重要なのは、数百人単位の人数ではなく、なおかつ、数十万人単位の人数でもない、という事である。

短歌史と呼ばれるものは、主にここを主戦場に作られるが、この短歌史は数千人単位で作っている小集団の歴史である事は留意しておくべきだろう。高等学校3つ程度の人数だとすると分かりやすいかも知れない。

 

5、「皇室御用掛」の「大歌人」

 

さて、その上に「皇室御用掛」の「大歌人」が君臨しているというのが金井の見立てだがこれは半分当たってると言わざるを得ないだろう。

「大歌人」かどうかはともかくとして、天皇の歌会始に出る歌人は、「プロというのか専門家というのか歌人」の中から選ばれた歌人に相違ない。もちろん歌会始めに出る事を目標としている歌人は、ほとんど存在しないだろうし(もしかしたらいるかも知れないが)、現代短歌の中で歌人の評価軸としてそれほど重要な位置を占めているとは思えない。現代短歌で話題になるとしたら、歌会始めに出る事の政治的な意味合いくらいであって、歌会始めで詠まれる歌を含めたその内実ではない。

しかし、これは、あくまで「歌壇」内からの視点であり事情なのであって、金井のように外部から見たらば、それが重要でないという事はあり得ないのである。

実際、金井美恵子の文章は、深沢七郎を特集したムック本に書かれたものだが、深沢七郎が風流夢譚で御用掛け歌人を茶化したのも、そこに非常に重い意味を見出したからに他ならない。要するに、当の歌人が歌会始に重要性を見出していなくても、外からはそう見えており、そう思われても致し方ないのである。

 

6、キャンディ状の両端の捩じれ

 

ここまで、金井の文章を敷衍して「歌壇」のコミュニティを階層別にみて来た。

こうして見ると、「歌壇」は、その最下部は、「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」において、最上部は歌会始において、社会に対して開かれているという事ができる。

面白いのは、この最上部と最下部において「歌壇」は、現代短歌としてではなく、「和歌」として社会と接合しているという点である。丁度、包み紙に包まれたキャンディのように上と下がくるりと捩じられている。

現代短歌を挟んで上部と下部は、和歌のイメージよって成り立っている。宴会等で「そこで一首!」などと言われて困惑する事が多いのは、短歌が着物を着て短冊に筆ですらすらと書くという和歌のイメージを抱えているために起こる笑い話である。そして、一般的な短歌のイメージの中の「着物を着て和歌を短冊に書いている人」は平安貴族であり、要するに皇族である。

先述の島田修三の小文には「実は和歌というものから、多くの日本人がただちに連想するのは天皇家である」とあるが、多くの日本人が接しているヒエラルキー最下部の「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」において、すでに最上部の歌会始めが織り込まれている。現代短歌のコミュニティの中にいると、皇室との関わりはむしろ薄いと感じるのだが、外部から見れば、上から下まで皇室がらみと見えて当然だし、「そのように見えている」という事自体が、社会体制との親和性を非常に高いものにしている。

例えば、地方自治体は短歌コンクールをこぞって開催している。現代詩のそれと比較にならない程多いが、その底流には短歌ならば、決してラジカルなものが現れないだろうという安心感があるのだろう。新聞歌壇も同様で、社会を乱すようなラジカルなものは出て来ない(選ばれない)という信頼感の上に成り立っている。皇室を含めた和歌のイメージを無意識的に消費し続ける事によって現代歌人たちは権力からの信頼を集めているのであり、その事に気づいていないようなのである。

 

 

7、結社による教育を通過しない現代歌人

 

「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」から「プロというのか専門家というのか歌人」へのルートは、以前であれば、結社を通過するのが主であった。しかし、ここ30年の衰退ぶりが凄まじいのは先述した通りである。私の見る限りだと、その理由の一つに、結社から生まれる作品が新人にとって魅力的ではないという事がやはりあるのではないかと思う。

前掲の篠弘の結社に関する小文「新人を育てる責務」では、「一部の指導者に負担を掛ける甘える構造」を問題視しているが、指導者として育成の仕事に関わるあまり、作品が軽視されるという事はありはしないだろうか。指導者たちの作品の魅力が乏しければ、当該結社に入る理由もないのである。新人育成機関としての側面に重きをおくあまり、結社から発信される作品が当の新人にとって魅力の乏しいものになってゆくといった隘路には嵌まってはいないだろうか。結社運営の雑務が魅力的な作品の評価のさまたげになってはいないだろうか。

結社の求心力が減退している中で、元気が良いのが、「所属に縛られず、新聞投稿や仲間内の集会に参加するだけの、数値化できない多くの短歌作者」(今井恵子「結社の行方」)である。

ここ数年の代表的な例だと、ネットにおける肩肘を張らない同人誌の集まりがある。インターネットと短歌との相性の良さは以前から言われていたが、特にここ数年はネット上で気軽に活動するインフラが整いはじめ、もはや無視できない存在になっている。

 

緩やかでしなやかな関係を保ちながら歌人が肩を寄せあう。そんなリトルマガジンが三つ創刊された。

中東在住経験がある超結社の歌人たちが集まった「中東短歌」。山中智惠子を愛好するメンバーによる「山中智惠子論集」。さらには若手男性歌人10人の有志が発行した「短歌男子」。今年に入って

創刊されたこれらの雑誌には、結社誌や同人誌とは異なる自由な雰囲気が流れている。

(短歌月評:緩やかな連帯 大辻隆弘 毎日新聞二〇一三年四月二九日)

 

これらの冊子には、結社組織に属している人もいるが、その多くが無所属の人々で構成されている。ここで例示されている三誌は同人誌形式だが、ネットでの繋がり方は、その継続性を重視しない所と多様性にある。三々五々、人々が集まり、「緩やかでしなやかな関係」を持ち、冊子という形を自然に残し、緩やかに収束する。もちろん、面白かったら継続すればいいし、気が向いたら、今度は別のネット上の短歌コミュニティに参加している人たちと連帯し、同人誌を発行するのもありだろう。

そもそも同人誌という形式にこだわらなくても、ウェブサイトや無料のブログサービスを使って作品を残してもいいだろう。最近はスマートフォンのカメラ機能等を使ってネット上に生中継を公開できるサービス(USTREAMなど)があるから、歌会を生中継する事も可能だ。

短歌に興味を持っていながらも地方在住であるなどの理由で周囲に短歌を愛好する者がいない人が、ネット上で他の同好者の存在を知り、緩やかに繋がってゆく。短歌に限った事ではないが、今まで自分ひとりだと思っていた人たちがネットのインフラを使い同好者を求め合い、一つの流れを作ってゆく。ネットの常時接続やスマートフォン、新しいソーシャルネットワーキングサービスの登場により、同じ趣味を持った人間が繋がりやすい環境が整備された事でこういった無所属の小集団は、今後更に増えてゆくだろう。

こういったメディアから、結社を経由せずに「プロというのか専門家」へ、じかに入ってくる人も出てきている。これらの人たちに結社ははたして魅力的に映り得るのだろうか。

ネットの発達が人間の本性を急激に変える事はないだろうが、不変である人間の本性と親和性が高いインターネット上での短歌は、今後、新聞短歌を呑みこむ勢いで広がっていくだろう。

 

8、結び

 

前述のとおり、「歌壇」は、現代短歌を中心におき、その上部と下部を和歌イメージによって社会に接している。和歌から遠く離れているように見える口語短歌も外部からの受容のされ方において、その例外ではない。口語で短歌を作り、和歌を遠く離れたつもりでいても、「和歌(短歌)なのに面白い」「和歌(短歌)なのに簡単だ」、「とても和歌(短歌)には見えない」といった、あくまで和歌イメージの存在を前提にしたものなのだ。良くも悪くも歴史の恩寵から逃れる事はできないのである。

もし、歴史から完全に切り離された「純現代短歌」を作ったとしても、それはこの世界から望まれている短歌ではないのだから、ジャンルの劇的な縮小は免れないだろう。少数精鋭という言葉もあるので、それはそれで面白いものができるかも知れないが私はやはり、今井恵子のいう「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」を含み持った短歌に未来を感じる。

島田修三は前掲の文章で「短歌の総体とは、この和歌史を抱え込むことになる」と書いているが、事実として短歌は、和歌を抱え込んでいるからこそ、和歌のイメージはやっかいなのである。うちに和歌を内包しつつ、いびつな権威性をまといながら現代短歌はある。そして、口語短歌ですらそれと無縁ではないという事に留意しておく事が重要だ。

 

※読書案内

「風流夢譚」はキンドル版が出てます。
金井美恵子氏の批評は、「深沢七郎 —没後25年 ちょっと一服、冥土の道草」収録。アマゾンにあります。