Category Archives: 今月の歌(未来誌)バックナンバー

本田一弘 『磐梯』

 

人はみな誰かの逆旅 夕されば死者ひとり来てひとり逆(むか)ふる

この花は誰(たれ)のあなうら亡き子らの白く小さなあなうらひらく

のどけしな磐梯の田は田植機をあまた侍らせ昼寝をしたる

超音波機器あてられて少女らのももいろの喉はつかにひかる

忘れえぬこゑみちてゐる夏のそら死者は生者を許さざりけり

 

福島在住の作者の第三歌集。東日本大震災、福島第二原発の事故の影響が歌集全体を覆う。挽歌も多いが妙にほの明るい印象を受けるのは掲出一首目に見られるような死生観のゆえだろう。
最後に挙げた一首は、歌集でも最後に収められている。かつてこの世を共に編んでいた死者は私達が命を終えるまで他者になってはくれない。(嵯峨直樹)

2015.5 未来 「今月の歌」

 

 

花山周子 『風とマルス』

 

窓際の埃が浮ける空間にしゃがめばわれより埃たちたり

君の顔、夜の光に照りているその健康にわれは見とれる

かなしさは眠たさになり眠りたり眠りて悪夢に怒鳴りて眠る

地雨降る傘の下より見上げおり芯まで白い莢蒾(がまずみ)の花

ぎっしりと雨降る窓に畳まれた時間だわれは正座している

 

第二歌集。二〇〇七年から二〇一〇年まで三年間の作品を収める。作風は結社そだちの作風とここ二十数年で急速に広がった口語の作風とのハイブリッドと言える。花山自身による異素材を組み合わせた装丁とその作風とがどこか通じ合う。第一歌集もそうだが、短歌表現への向い方のシンプルな美しさが際立つ。かぎりある命をささえ愛おしむ歌たちである。    ­(嵯峨直樹)

2015.4 未来 「今月の歌」

 

渡辺松男 『きなげつの魚』

亡き妻の素肌のやうな雲海をベッドとおもふ曙光を受けて

あッあッとかすかなるこゑ切株の銀河にのまれゆける蜻蛉(あきつ)の

旻天に遠くちひさく一生の反射のやうな銀のひかう機

おほきなるめまひのなかのちひさなるめまひかなこのあさがほのはな

たましひのありか教ふる雨音にこんなにうすく鼓膜はありて

 

言葉は血肉からしか生まれ得ない。当然ながらどんな精緻なロジックも私達が身体から自由ではない以上その根元は血にまみれる。一首目はこの世に不在の妻の肌の記憶。二首目、「銀河」に呑まれる蜻蛉の「あッあッ」は歓喜とも驚きともつかない原初的な音。四首目、「おほきなるめまひ」の中に私たちはある。血肉をまとう言葉の律動が韻律と深く結びあう第八歌集。  ­(嵯峨直樹)

2015.2 未来 「今月の歌」

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』

水に春しんしん映るこの朝をa painというタイトルにする

家族分展(ひろ)げて干せばまばゆくて傘とはこんなに輝くものか

溜まりゆく涙のなかの夕空のゆらぎの中に夕ぐれの国

氷イチゴ食みつつ紅の水になるわたしとあなたは女ともだち

蕎麦の花しろくゆれおりこの夏はあんな感じの帽子を買おう

 

のびやかな言葉運びが印象的な第一歌集。作者は二〇一二年に中城ふみ子賞を受賞している。掲出一首目。明るい春の景色の中の張りつめた痛みのようなものを見つめる。二首目は家庭の幸福を描いているが、そのまばゆさに幸福な風景が一瞬にして消え去るような印象があり喪失の予兆を思わせる。掲出五首目の衒いのない文体も魅力的だ。   (嵯峨直樹)

2015.1 未来 「今月の歌」

齋藤芳生『湖水の南』

私の悪態も愚痴も引き受けてなお美しかったのだ故郷は

祖父よ眼を閉じてもよいか烈風に煽られて針のように雪来る

昭和を生きて昭和に祖父は眠るなり我はおろおろ平成にいて

黒く重く阿武隈川は流れゆく吹雪にしびれいる福島を

かなしみのように糖度は増してゆく桃の畠に陽の傾ぐとき

 

 

福島出身の作者の第二歌集。前歌集『桃花水を待つ』は、中東アブダビでの生活を描きながらも、常に郷里に住む家族、自然への愛に立ち還るのが印象的だった。郷里への帰属意識をとうに失った人も多いだろうが、(それが不幸だとは言わないが、)この人は違う。原発事故で郷里を汚された哀しみが歌集全体を覆う。郷里は祖父母から受け継いだ命の有り所なのである。   (嵯峨直樹)

2014.12 未来 「今月の歌」

高村典子『雲の輪郭』

子離れの時期も終はりぬ共にゐて傷まぬだけの妥協覚えて

もう何も言はなくていい水桶の蜆はわづか隙間持ちあふ

ひそやかな最初の雨のひと粒はどこに降りしや 噴水みつる

持ち帰る怖さに伯母を納骨すわが建てし墓石の伯父の片へに

襁褓替へる手の冷たさに泣きし子よわが手が汝の世界のはじめ

高村典子『雲の輪郭』より

 

 

子育ての歌というと世界との合一感に満ちたものが多いが、掲出一首目はその別の側面を鮮やかに描写している。この歌に限らず、当歌集は、世界の暴力的な健やかさによってかき消されてしまう微かなノイズに満ちている。最後に挙げた歌も子育ての歌だが、子供との一体感と共に世界への批評がある。子供が初めて出会った母である「わが手」は、冷たいのである。   (嵯峨直樹)

2014.11 未来 「今月の歌」

井辻朱美『クラウド』

赤ん坊のえくぼのようにくぼむ水は無限バイトのメモリーを持つ

ゆく風の魔法陣に立ちて呼ばわればしずかに繰り上がる宇宙のかけ算

いくらでも穂わたはとばしてあげるからあなたは風にまもられていなさい

非現実とこの世を接合したような薄さでかなたに立ちのぼる富士

きらきらとまぶされている生命のような世迷い言のような夏

辻井朱美『クラウド』より

 

 

第六歌集。ファンタジー小説的な「設定」を元に異世界を構築してゆくのではなく、現世の約束事、すなわち「設定」をほぐしてゆく。そこに現れたのは、混沌とした力に溢れる現世だ。あとがきとして、「『詩』の火力」という熱量の高い一文が添えられており必読。言葉の連ね方も、より自由度を増し風通しがよくなった。                     (嵯峨直樹)

2014.10 未来 「今月の歌」

梶原さい子『リアス/椿』

はぐれてもどこかで会へる 人混みに結び合ふ指いつかゆるめて

腑を裂けば卵あふれたりあふれきてもうとどまらぬいのちの潮(うしお)

それでも朝は来ることをやめぬ 泥の乾(ひ)るひとつひとつの入り江の奥に

原発に子らを就職させ来たる教師達のペンだこを思(も)ふ

目にかかる髪を幾度も払ひをり海から海へ吹いてゆく風

梶原さい子『リアス/椿』より

 

 

気仙沼出身の作者の第三歌集。歌集は二つの章に分断され、東日本大震災前の歌を「以前」、震災後の歌を「以後」としている。掲出二首目までが「以前」、三首目からが「以後」。詠われている素材はもちろんだが歌柄が大きく三陸沿岸の風土を思わせる。五首目は、湿った冷たい海風に髪を晒し、その風土そのものになろうとしているようでもある。           (嵯峨直樹)

2014.9 未来 「今月の歌」

 

松村正直『午前3時を過ぎて』

立場上引き止めているだけなるを鴉は屋根に二度三度鳴く

ひっそりと長く湯浴みをしていたり同窓会より戻りて妻は

出勤の前のひととき仰向けの二十一本の子の歯をみがく

打ち明けるような口調で語りゆくことばが本音であるのかどうか

話しながら少し話を巻き戻すどこから不機嫌だったか君は

松村正直    『午前3時を過ぎて』より

 

 

三十五歳から四十歳までの歌を収める第三歌集。第一歌集の頃の軽やかな口語は息を潜め、文語口語問わず言葉に複雑な陰影がある。掲出一首目に代表されるように人との係わりで生じる心理の綾をクリアに掬いとる。関係性のコアの部分を純化して描くのではなく、歳を重ねるにつれて複雑化する関係性を省略なく描ける巧みさ、したたかさが魅力的だ。       (嵯峨直樹)

2014.8 未来 「今月の歌」

大崎瀬都『メロンパン』

感応式信号機に認知させるため軽自動車をせり出してみる

一生に二度ない今日の夕暮れをわれは寄席にてまどろみてをり

スカートのなかで左右の内ももが触れあつてゐる雨の七夕

さよならの挨拶のあとほほゑみの瞬時に消える彼女はいつも

われにまだ父母ありて川花火を見てをり団扇の風を受けつつ

大崎瀬都    『メロンパン』より

 

第三歌集。描写のゆきとどいた作風が特徴。一首目、三首目のようにきめ細やかさのレベルはほとんど瑣事といっても良いくらいである。これら日常の瑣事が作者の手にかかると奇妙に強力な輝きを放つ。その理由は、掲出二首目の「一生に二度ない」という一語に集約されるだろう。生と死へのクリアな認識が著者の作品の底流には常にあり、切ない。         (嵯峨直樹)

2014.7 未来 「今月の歌」