Category Archives: 日記的な書きもの

ほんものの信用できなさ

ほんものの信用できなさというのがある。
ビートルズは本物のビートルズだからビートルズのかっこいい所だけを見せてくれない。
ビートルズのここが良いんだ、かっこいいんだ、というのがあるのだが、本物のビートルズだから、そうでない所も当然ある。
動画はラトルズというビートルズのパロディバンドだが、本物とちがってビートルズの良い部分を濃縮して見せてくれる。
にせものだから信頼できる。ラトルズはビートルズよりもビートルズが濃縮されているから大好きだ。
中心メンバーはニールイネスというひとで、最近亡くなった。

ニールイネスのジョンレノンの声真似も、本物のジョンレノンよりジョンレノン。
喉にかかってザラっとしたノイズが混じる感じというか。
このチーズアンドオニオンという曲はラトルズ屈指の名曲。

こちらはアイ・アム・ザ・ウォルラスよりも好きだと思う時がある。
本物はアイ・アム・ザ・ウォルラスみたいな曲を二度は作ってくれない。
でもアイ・アム・ザ・ウォルラスが好きならアイ・アム・ザ・ウォルラスみたいな曲が10曲あっても好きになれる。

日常のモード

日常のモードで文学と関われてこなかったのは間違っていたと思う。
文学に関わるのはいちいちキツイ。ある程度自分をおいこまなくてはならず、それが日常を損なう。

例えば仕事の能率が下がるとか。仕事のことを考える時間が減るとか。ギャンブルにいきたがるとか。睡眠時間がへるとか。それと太る。

日常を表現するのが嫌いというのではなくできてこなかった。そのような文学との関わり方ができてこなかった。何度も試してみたけどうまくいった事がない。いつかできたらいいと思う。間違ってきた。一般論として日々の暮らしを表現することの方が難しい。

普段、あさましくお金のことばかり考えているから、文学に入るときは特別な儀式が必要になる。
ビーチボーイズ、マイブラのラヴレスを大音量できいてお金が入って来るのをふせぐ。

いかにも幽玄なこの曲は滑稽だろうか。そんなことはない。ブライアンの声は切実だ。

こんな風景は現実にはない。あっても瞬時に終わる。あらかじめ損なわれている。この曲にはときどき泣かされる。

そうこうしているうちに、たいてい言葉をいとう気持ちが強くなる。あらゆる書き物が我慢できない。自分の(新しい)これから来るはずのよい言葉以外は。

それから書きかけのアイディア集的なファイルをひらく。ファイルをひらくのはいつでも恐怖だ。
1日前ならいいが、数日以上経過すると落胆させられるのではないかと恐怖心にかられる。

やり直しは嫌だ。しかもどこからやり直せばいいのか分からないのは怖い。表現をはじめた頃からやり直さなければならない事に気づいたら無理だ。

たいていは、寝かしてあったファイルをひらいても落胆はしない。予想より良いと思うときもあるし、何も感じないときもある。何も感じないときは焦る。最初からやらなくてはならないと思う。

生々しくお金

日々忙しく更新する機会を逸していた。物理的にというより精神的に忙しい。
自分の仕事はとても生々しくお金と結びついているため心がすさみがちだ。
NHKのクラシックTVで「ビーチ・ボーイズのティーンエイジ・シンフォニー」という特集をやっていた。ふいにGod Only Knowsがかかって泣きそうになった。

自分の感情が生きていたことにほっとした。新型コロナが蔓延している。

昔の歌を読み直している

連作を作るつもりが、途中で忙しくなってしまい構築する暇がなくなってしまった。
最近は第一歌集以前の歌を読み直している。気恥ずかしくて長くできなかった事。
なぜこれを落したのか。逆になぜこれを入れたのかというのを思い返している。

シューゲイザー(ライドとマイブラ)-あと少し足りない魅力

連載作品の原稿を出してひと段落といったところ。
最近シューゲイザーをよく聴く。私の世代のものだ。
轟音のギターが夢心地にさせてくれるサウンド。
大音量で聞かなくてはほぼ意味がない。
車を走らせながら聴くのはおすすめしない。危ない。だが聴いてしまう。ダメじゃん。

シューゲイザーといったらRIDEとマイブラ。
マイブラはこの方法を突き詰めて「ラヴレス 」という傑作アルバムを作った。

マイブラを聴いているとひりついた痛みのような感情が沸き上がってくる。泣きたくなる時もある。思考がふわっと飛んでしまう。

マイブラが方法を突き詰めたのに対し、ビートルズが作ったポップ(ロック)の型を崩そうとしなかったのがRIDEだ。
ポップの型を死守する。破壊したらもっと跳べるかも知れないのに跳んでたまるかというように地に足をつけたがる。

ビートルズ未満、マイブラ未満、OASIS未満(RIDEのアンディ・ベルはOASISのメンバーだった)、いろいろ足りない。いつもほんの少し物足りない思いをしながら聴き終わる。しかし、最後の最後には、いつもマイブラではなく、OASISでもなくてRIDEを選んでしまう。

最近のことつれづれ

「現代短歌」誌で作品の連載をさせていただいている。
作るのは苦しく楽しい。
次回は順調にいけば2021年5月号(3月16日発売)に掲載される予定。

角川短歌の今月号に連作を12首。
こちらはやっと読み手の顔が見える気がして作った。

最近はZOCを聴いている。
ZOC「DON’T TRUST TEENAGER」

大森靖子(やすこと数年前は読んでた)そのものは精神的にキツいものがあるが、zocなら聴ける。

読書はドン・キホーテが後編に入った。

 

近況

ここ数年の作歌は辛いやり方で、自身を追い込むようなものだった。
好きでやってるのだから仕方ないが一首作るごとに髪の量が減る感じ。

最近は新人賞の頃の作り方をもう一度やってみている。
こちらはどちらかというと楽しい。
しばらくは楽しければいいのではないかという気もしている。

「半地下」のころ考えていたこと

引き続き考えるために書く。

私がもっとも影響を受けたのは、岡井隆の他に、加藤治郎、東直子、穂村弘といった歌人である。つけ加えると田中槐という歌人もそうだ。

これらの人達は私の表現の根っこにある。

中学時代から、地方で地道に文語調の短歌を作ってきた自身にとって、これらの人々の口語歌との出会いはショッキングだった。
こんな歌が作りたいとあこがれ、一生懸命口語体の歌を作ってはみたが、それまで作ってきた文語体と比較すると、もうどうしようもなくみすぼらしいものだった。

文語の癖がついていたせいか言葉が自由にならない。文語だとそれなりにできるものが口語でやると見られたものではなかった。

口語になると言葉が自由にならない、コントロールできない感じがあって、それは短歌研究新人賞をとってからも続いた。

また、上に挙げたような人達には口語なのに様式的な美しさのようなものがあったが自分のにはそれがないと思った。

その原因を短歌の様式にたいする不勉強に求めた。
文語調でやってきたものを中途で口語に変えたために、短歌的な表現の様式を身につけていないのだと思った。
短歌表現の定石、型にはまった表現を身につけるために、オーソドクスな作風と思われる作家の歌集を沢山読んだ。

例えば、「枝差し交す」とか「●●顕つ」「桜泡立つ」とか短歌で常套的に用いられる表現の組み合わせの仕方を、身に浸透させれば、様式的に美しい短歌ができると思った。

歌のテーマは「性愛」だった。
常套的なものだが、常套的なものにしか真実がないと思っていた。

大きな方向性としては型にはまった表現と常套性だったが、当然、自身の心情を元に歌を作るのだから、型の中に、常套の中に、独自な情感が滲むはずだった。

この歌集では口語で作るのはあきらめている。できる段階ではなかった。

 

失敗すること2

岡井隆から学んだのはその作風というより、失敗する事の大切さだと思う。
岡井隆は上手い歌人だが、失敗をする歌人でもある。
自身の不得手な表現の仕方に挑んで、結構しくじる。
ひとところにとどまりたくない、失敗は当たり前、自身の表現をどんどん拡張していく。

わたしの学んだことの全ては彼のこういった姿勢ではないかと思う。

岡井隆に学んだ歌人の多くに対して、私は歌が「上手」という印象を持たない。

長くやっていれば、だれでもそれなりに「上手」になれるのが短歌という表現なのに。
彼らはひとところにとどまって同じやり方をトレースし、「上手」い歌を作り続ける事ができないのだ。
完成した時点で、あるいは完成が見えてきた時点で、その表現の手法やテーマは興味の対象から外れ、新しいものへと関心が動きつづける。

それだから私も「上手」ではない、
とは言わない。
といってもちろん「上手」いとも思わないが。
私は失敗することを岡井隆から学んだが「上手」に対する志向性が強い。
民芸品の職人のようにある手法を幾度もトレースして「上手」になるのが好きである。

 

ところで、多くわたくし事をぶつぶつと書いている。
他人の歌も今は引用しない。こういうブログがあっていい。

失敗すること

師弟関係の形はさまざまだと思う。
私の場合、師は岡井隆である。

本当にそうかと思う時がある。いつの時代の話だよと。

「師弟」と書いてから、万が一、外部の人が見たらどんな風に思うのだろうとひやひやする。
師匠にお金をつつむとか、歌を直されるとか、師匠の前では正座をくずしてはいけないとか。

もちろんそんな事は当然ない。

しかし、師弟関係は存在するし、自分は弟子だなと思う。

弟子なんて、とっくに滅んだものを擬古的に再現して面白がっているように見えるかも知れないが、やはり、思いの他深く弟子である。

この師弟関係を強固なものにしているのは師による選歌だろう。

ある月の結社誌に10首だして、7首しか載らないとする。
3首は師が落したのだ。
なぜ落としたか理由は明示されない。
師が何を思って3首を落したのかを推察する事になる。

ある一首を掲載しない事。
たったこれだけだが、大きなメッセージになる。

理由を明示されないからああだこうだ自分で考える。
非効率的なようだが、案外と理にかなっているのではないか。
実際のところ、「悪いところ」は自分で気づく以外にはない。

「悪いところ」と書いた。
ここでいう「悪いところ」とは当然、師の価値観によるものである。
こうして師の価値観をどんどん内面化してゆく。
実にうまくできた制度ではないか。
ちょっとした事(ある歌を載せない事)で最大限の影響を与えてしまう。

私にとっての師弟関係の半分くらいはこの選歌である。
あとの半分は、師の著作や言動から受ける影響で、私は主に短歌を作る時の心構えのようなものを学んだように思う。

(続く)※やる事あるので少し休む