Category Archives: 日記的な書きもの

昔の歌を読み直している

連作を作るつもりが、途中で忙しくなってしまい構築する暇がなくなってしまった。
最近は第一歌集以前の歌を読み直している。気恥ずかしくて長くできなかった事。
なぜこれを落したのか。逆になぜこれを入れたのかというのを思い返している。

シューゲイザー(ライドとマイブラ)-あと少し足りない魅力

連載作品の原稿を出してひと段落といったところ。
最近シューゲイザーをよく聴く。私の世代のものだ。
轟音のギターが夢心地にさせてくれるサウンド。
大音量で聞かなくてはほぼ意味がない。
車を走らせながら聴くのはおすすめしない。危ない。だが聴いてしまう。ダメじゃん。

シューゲイザーといったらRIDEとマイブラ。
マイブラはこの方法を突き詰めて「ラヴレス 」という傑作アルバムを作った。

マイブラを聴いているとひりついた痛みのような感情が沸き上がってくる。泣きたくなる時もある。思考がふわっと飛んでしまう。

マイブラが方法を突き詰めたのに対し、ビートルズが作ったポップ(ロック)の型を崩そうとしなかったのがRIDEだ。
ポップの型を死守する。破壊したらもっと跳べるかも知れないのに跳んでたまるかというように地に足をつけたがる。

ビートルズ未満、マイブラ未満、OASIS未満(RIDEのアンディ・ベルはOASISのメンバーだった)、いろいろ足りない。いつもほんの少し物足りない思いをしながら聴き終わる。しかし、最後の最後には、いつもマイブラではなく、OASISでもなくてRIDEを選んでしまう。

最近のことつれづれ

「現代短歌」誌で作品の連載をさせていただいている。
作るのは苦しく楽しい。
次回は順調にいけば2021年5月号(3月16日発売)に掲載される予定。

角川短歌の今月号に連作を12首。
こちらはやっと読み手の顔が見える気がして作った。

最近はZOCを聴いている。
ZOC「DON’T TRUST TEENAGER」

大森靖子(やすこと数年前は読んでた)そのものは精神的にキツいものがあるが、zocなら聴ける。

読書はドン・キホーテが後編に入った。

 

近況

ここ数年の作歌は辛いやり方で、自身を追い込むようなものだった。
好きでやってるのだから仕方ないが一首作るごとに髪の量が減る感じ。

最近は新人賞の頃の作り方をもう一度やってみている。
こちらはどちらかというと楽しい。
しばらくは楽しければいいのではないかという気もしている。

「半地下」のころ考えていたこと

引き続き考えるために書く。

私がもっとも影響を受けたのは、岡井隆の他に、加藤治郎、東直子、穂村弘といった歌人である。つけ加えると田中槐という歌人もそうだ。

これらの人達は私の表現の根っこにある。

中学時代から、地方で地道に文語調の短歌を作ってきた自身にとって、これらの人々の口語歌との出会いはショッキングだった。
こんな歌が作りたいとあこがれ、一生懸命口語体の歌を作ってはみたが、それまで作ってきた文語体と比較すると、もうどうしようもなくみすぼらしいものだった。

文語の癖がついていたせいか言葉が自由にならない。文語だとそれなりにできるものが口語でやると見られたものではなかった。

口語になると言葉が自由にならない、コントロールできない感じがあって、それは短歌研究新人賞をとってからも続いた。

また、上に挙げたような人達には口語なのに様式的な美しさのようなものがあったが自分のにはそれがないと思った。

その原因を短歌の様式にたいする不勉強に求めた。
文語調でやってきたものを中途で口語に変えたために、短歌的な表現の様式を身につけていないのだと思った。
短歌表現の定石、型にはまった表現を身につけるために、オーソドクスな作風と思われる作家の歌集を沢山読んだ。

例えば、「枝差し交す」とか「●●顕つ」「桜泡立つ」とか短歌で常套的に用いられる表現の組み合わせの仕方を、身に浸透させれば、様式的に美しい短歌ができると思った。

歌のテーマは「性愛」だった。
常套的なものだが、常套的なものにしか真実がないと思っていた。

大きな方向性としては型にはまった表現と常套性だったが、当然、自身の心情を元に歌を作るのだから、型の中に、常套の中に、独自な情感が滲むはずだった。

この歌集では口語で作るのはあきらめている。できる段階ではなかった。

 

失敗すること2

岡井隆から学んだのはその作風というより、失敗する事の大切さだと思う。
岡井隆は上手い歌人だが、失敗をする歌人でもある。
自身の不得手な表現の仕方に挑んで、結構しくじる。
ひとところにとどまりたくない、失敗は当たり前、自身の表現をどんどん拡張していく。

わたしの学んだことの全ては彼のこういった姿勢ではないかと思う。

岡井隆に学んだ歌人の多くに対して、私は歌が「上手」という印象を持たない。

長くやっていれば、だれでもそれなりに「上手」になれるのが短歌という表現なのに。
彼らはひとところにとどまって同じやり方をトレースし、「上手」い歌を作り続ける事ができないのだ。
完成した時点で、あるいは完成が見えてきた時点で、その表現の手法やテーマは興味の対象から外れ、新しいものへと関心が動きつづける。

それだから私も「上手」ではない、
とは言わない。
といってもちろん「上手」いとも思わないが。
私は失敗することを岡井隆から学んだが「上手」に対する志向性が強い。
民芸品の職人のようにある手法を幾度もトレースして「上手」になるのが好きである。

 

ところで、多くわたくし事をぶつぶつと書いている。
他人の歌も今は引用しない。こういうブログがあっていい。

失敗すること

師弟関係の形はさまざまだと思う。
私の場合、師は岡井隆である。

本当にそうかと思う時がある。いつの時代の話だよと。

「師弟」と書いてから、万が一、外部の人が見たらどんな風に思うのだろうとひやひやする。
師匠にお金をつつむとか、歌を直されるとか、師匠の前では正座をくずしてはいけないとか。

もちろんそんな事は当然ない。

しかし、師弟関係は存在するし、自分は弟子だなと思う。

弟子なんて、とっくに滅んだものを擬古的に再現して面白がっているように見えるかも知れないが、やはり、思いの他深く弟子である。

この師弟関係を強固なものにしているのは師による選歌だろう。

ある月の結社誌に10首だして、7首しか載らないとする。
3首は師が落したのだ。
なぜ落としたか理由は明示されない。
師が何を思って3首を落したのかを推察する事になる。

ある一首を掲載しない事。
たったこれだけだが、大きなメッセージになる。

理由を明示されないからああだこうだ自分で考える。
非効率的なようだが、案外と理にかなっているのではないか。
実際のところ、「悪いところ」は自分で気づく以外にはない。

「悪いところ」と書いた。
ここでいう「悪いところ」とは当然、師の価値観によるものである。
こうして師の価値観をどんどん内面化してゆく。
実にうまくできた制度ではないか。
ちょっとした事(ある歌を載せない事)で最大限の影響を与えてしまう。

私にとっての師弟関係の半分くらいはこの選歌である。
あとの半分は、師の著作や言動から受ける影響で、私は主に短歌を作る時の心構えのようなものを学んだように思う。

(続く)※やる事あるので少し休む

ケロロ軍曹の挿入歌、Dear Friendについて

いきなり本題とはズレるが、ヤフーがブログサービスをやめるらしい。

Yahoo!ブログがサービス終了–黎明期のサービス続々終了
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190228-35133496-cnetj-sci

SNS疲れからまたブログの時代がくると思っていた矢先なので残念。
ページビューを考えるのなら、ブログは、SNSや、半SNSのようなnoteとは比べるべくもない。

けれど、ゆっくりとものを考えながらものを書くのに丁度良いメディアだと思う。


本題。

鈴木さえ子関連の音楽を物色しているうちに、「Dear Friend」という曲とであった。
(鈴木さえ子はケロロ軍曹の音楽を担当していた)

Dear Friend

(いろいろ不便なので、ユーチューブをとりあえず全面的に信用することにした)

実のところ、自分は「ケロロ軍曹」が苦手であった。
特にあのナナメにものを見る感じが、いかにも同世代感があってイヤだった。
ナナメに構える事自体に価値を置いて、仲間内で冷やかに笑いあう感じがどうもという感じ。
今思うと同族嫌悪だと思うが、そのせいで、この曲との出会いの機会をうしなっていたのである。

曲も良いのだけど、歌詞がシンプルで感動的。

Dear Friend 
鈴木さえ子 掛川陽介 本澤尚之

冷たい涙で ふるえる夜
シグナルおくれよ もうすぐそこ

Remember I’ve been always waiting in your sight
I’ve been waiting, waiting, waiting for your SOS
Anytime, anywhere

つらい局面に立たされている友人に対して、「わたしはいつでも君の味方だよ」とメッセージを発している。
自分ひとりで問題を抱え込んでいる友人に対して、「つらい」と伝えて欲しいと言っている。
(私は、鈴木さえ子が自身のお子さんへ向けた歌でもあると解釈した)

冒頭いきなり「冷たい涙で ふるえる夜 」ではじまる。
こんなに平易なのに、ちょっと非凡だと思う。

「涙」や「ふるえる」はつらい状況の喩。
特に「涙」は「冷たい」のだからつらさが極まっている状態。

「ふるえる夜」は「夜」に(友人が)「ふるえ」ていると捉えてもいいし、「夜」自体が「ふるえる」と捉えてもいい。というか、曖昧に、どちらにもとれるような仕掛けになっている。

冷たい 涙 ふるえる 夜

要素はなんともありきたりな言葉。
それでここまでできる。

これを短歌にしたらどうかという事を考えもしたが、おそらくダメなのだ。
これ以上言葉を足すとどんどんウェットになるばかり。

思うに「Remember~」以下を英語にしたのは、ウェットになるのを避けたのだろうと思う。
実際、二行目の「シグナルおくれよ もうすぐそこ」でさえも、てにをはが削られ、様々な要素がギリギリまで省略されている。

鈴木さえ子の「恋する惑星」について

最近、鈴木さえ子ばかり聴いている。
シンセでかっちりと構築された音に、ゆらぐ、少し不安定なボーカルが重なる。

鈴木さえこ HAPPY END

ポップスの様式に沿っていながら、ささやかに新しいものを加えている。
定石を最初から外れていたりはしない。あまり無茶はしないが、ささやかに独自なやり方。

要するに自分はこんなのが好きだ。

同じ鈴木さえ子の作品で「恋する惑星」という、たぶん一番有名な曲がある。
こちらの歌詞は、サエキけんぞうが書いていて、こちらも素敵だ。
以下、抄出。

「恋する惑星」 詞:佐伯健三

だれか 君をさらうよ
めかして おいでよ
Jupiter! 北の空から
チャンスうかがう まなざし
Lovely (Planet)
Lovely (Planet)
君のまわり 僕がまわる

「恋する惑星」は、ユーチューブにもあるが、どうも合法ではないようなので引用はしない。
こんな歌詞をどうしたら書けるのだろう。
軽やかでとても楽しい。

「惑星」だけに「君のまわり 僕がまわる」のかい!
と、誰でも考えつく発想でありながら、陳腐と感じないのは、私たちが内面化している様式がこの歌詞をきらめかせているからだろう。
この歌詞と内面化された様式と相照らしあうのだろう。

Jupiter! 北の空から
チャンスうかがう まなざし

ここも素敵だ。

鈴木さえ子はリアルタイムでは聴いていない。
自身にとっては中高生の頃で、残念だが私は彼女を見つけることがかなわなかった。

ボーカルもとても魅力的。
ふわふわとしていて、肉体を近々と感じさせる。