跡形(美志23号)

透明なペットボトルは半透明のふくろに朝のひかりを張って

 

淡々とあかるい昼に選ばれて生まれたうぶ毛ひからせながら

 

つくづくと無縁な街のあかるさにまみれて淡いかげを映した

 

風圧をきめこまやかに感じとる花ばな色を推しあっている

 

風圧は花弁すべてをうらがえしすべてひかりに変えてしまった

 

一束のひかりになってぬばたまのコーラの黒にしんと吸われる

 

一束のひかりだったらいないかのような自然な息をしてる

 

跡形は埋まって在ったか無かったか無かったいびつに無かった世界

 

居座りの椅子を調整する音は聞えていないみじろぎながら

 

居座りの椅子を調整する音に気づいていると目くばせをした

 

半透明のふくろのなかに張るひかり。取り去られるまで道におかれて

 

半透明のふくろの中の白いもの道に漏れだす時はくるのか

 

きららかにうぶ毛光らす息づいたこの世の場所の取り分はそれ

 

とりどりのサムネの太い文字列のゆり動かして僕のけばだち

 

戦いは始まっていた 気のついた者たちはもうこぶしをにぎる

 

いつだって逃げて良かったシンジくん退路を断って戦場にする

 

想像の範囲まるごと燃えていて熱風はくる隣席にまで

 

戦場をひらけば人のようなもの集まってくる少し笑って

 

集団に属していないものたちをあなどるように挨拶をする

 

大勢がひしめきながら後方をふさいでいると信じられたよ

 

低酸素いき苦しくて気持ちいいその憎しみにぶら下がるとき

文学の方法

文学には方法があるが、それが成功していると証明することは困難。
その方法が、成功したか否かは誰が判断するのか。
その方法が実行されたことを誰が証明するのか。
およそ方法とは思い違い。
成功しているとされる場合も。
ひとの内面はそう簡単ではないのだから、方法を実行しているという想いだけが本当で尊い。
それが行われているかは永遠に謎。

方法なしでいたことはない。方法が行われているという想いが自分の文学を支えてきた。

 

 

 

 

シューゲーザー

大好きなシューゲーザーバンド、Rideの新しいアルバムがでて、けっこういい。

しかしこの人達は求道者だなと思う。信頼できる。この曲の音はニューオーダーぽい。
メンバーの1人は一時期、オアシスにもいたが、オアシスよりこっちが好み。
去年日本でライブやってたけど行けなかった。また来てほしい。

シューゲーザーといえばシューゲーザーアイドル、Rayもよくきく。

Rideもそうだけどシューゲーザーて少年とか少女ぽい声が良くはまる。
アイドルといえば、ILLITも。

こういう雰囲気は以前の日本が得意だったんじゃないかな。
今日はオッペンハイマーのレイトショーをみてきた。今月はエルヴィスコステロのライブもいく予定ですこしは文化的だ。

 

社会を題材にした歌2

社会を題材に短歌をつくるのは年々難しくなっていると思う。
特に時事的な問題はそうで、ほんとうにむずかしい。
作品のなかで怒りを、読み手に届くかたちで入れ込むのがむずかしい。

ビートルズのNow And ThenのMVをみた。
もう何回もきいている。MVも基本的に出来がいいと思う。
MVのニコニコしているジョンレノンは魅力的だが、そういうジョンレノンが受け入れられる時代なんだろうなとも思う。
始終ニコニコしていてかわいい。まあかわいいからいいか。

そういえば、対象を批判するのに、わざわざ一度、対象をほめてから、批判するというのがあって、最近は特に多い。
その方が受け手の機嫌がとれるからで、理にかなっている。
しかし、いくら目的のためとはいえ、ほめるなどもってのほかという怒りもある。

大災害の日という一連をつくったことがあったの思い出して、最近はこの方法からヒントに社会を題材にした歌をつくっている。

大災害の日

建物がゆっくり倒れてゆくまひるきれいな風が眠りを誘う

システムの飛ばした白いセスナ機が僕の頭上をばくぜんとゆく

海ぎわの発電施設が放射する無色の毒が身体を洗う

破損した腿の中から血の液があふれ出ているまだ生きていた

歩くたび液が出るから階段を汚してしまう傷ついた人

水くんで水くんで人にかけているまだ生きているかも知れなくて

しんでいるひとらの上でみぎ→ひだり防犯カメラの確かな軌跡

標識の矢印のさす方角が僕の歴史のゆきつくところ

老人は影をなくしてしにましたペデストリアンデッキの上で

昼ごろは晴れていました夕方は晴れていました大災害の日

太陽はくりかえし来て表面を一定量の光で満たす

あくる朝影のきわだつ瓦礫から石を拾ってポケットに入れる

2000年ごろの作品だと思う。歌集には師から賛成されなかったので入れなかった。

 

社会を題材にした歌

ここのところ、社会を題材にした歌がふえてきて、お金のことでせわしない合間に作っている。
現代短歌と角川短歌にその辺はのる。あと短歌往来は今月のってる。

3つめの歌集をだした後に考えたのは恋愛歌集をつくることだった。
年齢が、と、思いもしたがひとつめの歌集を恋愛の歌集にしなかったことを悔いる気持ちがそう思わせた。そのような歌がたくさんあったにもかかわらず、自分の愚かなきもちがそれを妨げた。

とりとめなくて申し訳ないが、仕事の文章ではなく自分の文章をとりもどすためにいろいろ書いている。

最初の歌集では、あまやかな歌だけでひとつの歌集をおおいつくしたら、師はおもしろく思わないだろう、と師の気持ちを先回りをしたのだった。
不得意ながら社会をよんでもいたからそれを入れてしまったのを後悔している。
そういうのは不得意だし、なにしろ性格が善良だから、いまいち毒がないのである。

そういえば染野太朗の最新歌集は「初恋」というのでとてもよかった。
そしてあの年齢だからこそ「初恋」としたのだろうとおもう。

あと、2つめの歌集は性愛の歌が減り続けいる頃で、それにぶつけるつもりで性愛をテーマにした。
東直子さんがそのあたりの意図を分かってくれたのがうれしかった。
自分はいつも、何もかもをわざとやっているつもりでいるが、そんなにはわざとではない。
どういったことも恥かしい感じになるのを恐れてはいけない。良さの多くはその近辺にある。

それで、4つめはさすがに恋愛歌集にしたくて、実際、作歌のために使っているファイルの名前は「恋愛歌集をまとめる」となっている。いまさら性愛ではなくて、最初の歌集のころとは違うかたちで恋愛歌集がつくれるはずだと息巻いていたのだ。

とにかく「恋愛歌集をまとめる」というファイルに思いついたフレーズを寄せ集めてきて、ああでもないこうでもないとやる。

そういえば今日は、ついにビートルズの新曲が発表される。
Now and Then というタイトルで、海賊盤などでは有名なジョンレノンの未発表曲だ。
どんな仕上がりになるか楽しみだ。

つづきはあした気がむいたらかく。

ブラ―と言えば…

短歌を作っていて遅い時間になってしまった。

ブラーと言えば、自分は圧倒的にグレートエスケープ派で、このアルバムが日本であまり評価が高くないのが不満だ。
その後はグランジとかにだんだんと寄ってきて自分の好みからは離れはじめる。
特にステレオタイプという曲がいい。

歌詞の皮肉は痛烈といえば痛烈だが、美しいものへの希求への裏返しだからキュートとも言える。
根本的な善良さがブラーの良いところだと思う。かわいさはスター性。
曲調もXTCあたりの王道英国ポップ風でかっちり組み上がっている。
ブラーは当時、オアシスのライバルという事になっていたがこんな歌詞でオアシスに対抗するのは無茶すぎる。

それと同時期に聴いていたのがWEEZERのピンカートンというアルバムで、最初は本当にダメなヤツの曲からはじまる。

今ではSNSとかでダメさをアピールするのは結構あるけど、当時は新しかった。
ボーカルのリヴァースクオモはその後日本人女性と結婚した。
なんか下むいてビクビクしてるように見えるけど演技ではないと思う。恐怖にふるえているのにパワーは溢れ出してしまう。

怒れている

Blurが新しいアルバムを出して怒れていて驚いた。
怒っていても怒り方が分からない感じがあって困惑している。
というかこの時代に怒っていいのかも、どうしても、考えてしまう。
しかしBlurをはじめてダサいと思ったし、信頼できる。

型について

月球に強いひずみが起こるたび薄紫の花野ひろがる

みずからの火という歌集に収めた歌。
今みると「薄紫」は「うす紫」とした方がいい気もするけど、「うす紫」としなかったのは、その前の「たび」をひらがなにしたからだろう。
「たびうす」と読みづらくなるし、かといって「度」と漢字にするとあまりに硬い。

月球→薄紫の花野はもともとイメージ的に親しいので新しくも、独自でもない。
独自をきらう気持ちが強い時がある。表現の型に没してしまいたい気持ち。
57577の事を型と言ったのではない。表現の、ある文化圏における型。
ある小説をあ、なんか現代文学ぽいな!と思う時があるけど、なぜそう感じるか自らに問えば、どこか現代文学のフォルムを踏襲しているからに相違ない。例えば語彙、例えば、語の繋げ方、などなど。ところで自分は以前から現代文学の型というのが苦手でときどき我慢できない。
和歌は表現の型の踏襲の文学だし、アララギ派の短歌もそれだ。型を踏襲しておきながら、ほんのささやかな、しかし決定的に新しいものを置く。性交渉のにおいもどこかするので苦手な人もいそうだ。
掲出した歌は、型どおりの、何か前衛短歌の、葛原妙子的なものを踏襲しているけど、新しいものはさほどない。さほど、と書いた。少しはあると願いたいし、少しでいい、という気分の時が多い。
とても独自なものを繰り広げるときの人の表情をみて疲れる時もある。なぜならそんなものは、この世にほとんど存在しないからだ。

批評性について

先日、エルヴィス・コステロの比較的あたらしいアルバムをきいたが、やたらとロックしていて、まるで同時代への嫌がらせのようだなと思った。エレキギターなど古いといった潮流への嫌がらせ、あてこすり、よくいえば批評。
こんな態度は流行らないのではないか。

「半地下」という歌集をだしたとき、その時代の短歌の世界への批評のつもりで出したのを思い出した。
それを理解してくれた人は少なかった(が、いたのだ。ありがたい)と思う。
自分が作品をつくるとき、あるいは歌集をあむとき、どんな時も批評、批評で、疲れる。
しかし、それなしでは作品や歌集をあむことすらむずかしい。癖のようなものだ。
おおむね理解されないと思うことが多いのは、ほんとに理解されたいとは思っていないからかも知れない。
批評性というのは理解されたらある効力を失うという事があると思う。

↑しかしどうなのか…。とおして聞いたら何かくるしい気がしてきた。

くだんの歌集は寺山修司賞の候補になった。
それから2年後にはその賞自体がなくなった。

作品をつくる姿勢としてこういったものが当たり前であるという態度は未来という短歌結社の影響がつよい。
それがよかったのか、悪かったのかはわからない。