Monthly Archives: 6月 2023

型について

月球に強いひずみが起こるたび薄紫の花野ひろがる

みずからの火という歌集に収めた歌。
今みると「薄紫」は「うす紫」とした方がいい気もするけど、「うす紫」としなかったのは、その前の「たび」をひらがなにしたからだろう。
「たびうす」と読みづらくなるし、かといって「度」と漢字にするとあまりに硬い。

月球→薄紫の花野はもともとイメージ的に親しいので新しくも、独自でもない。
独自をきらう気持ちが強い時がある。表現の型に没してしまいたい気持ち。
57577の事を型と言ったのではない。表現の、ある文化圏における型。
ある小説をあ、なんか現代文学ぽいな!と思う時があるけど、なぜそう感じるか自らに問えば、どこか現代文学のフォルムを踏襲しているからに相違ない。例えば語彙、例えば、語の繋げ方、などなど。ところで自分は以前から現代文学の型というのが苦手でときどき我慢できない。
和歌は表現の型の踏襲の文学だし、アララギ派の短歌もそれだ。型を踏襲しておきながら、ほんのささやかな、しかし決定的に新しいものを置く。性交渉のにおいもどこかするので苦手な人もいそうだ。
掲出した歌は、型どおりの、何か前衛短歌の、葛原妙子的なものを踏襲しているけど、新しいものはさほどない。さほど、と書いた。少しはあると願いたいし、少しでいい、という気分の時が多い。
とても独自なものを繰り広げるときの人の表情をみて疲れる時もある。なぜならそんなものは、この世にほとんど存在しないからだ。

批評性について

先日、エルヴィス・コステロの比較的あたらしいアルバムをきいたが、やたらとロックしていて、まるで同時代への嫌がらせのようだなと思った。エレキギターなど古いといった潮流への嫌がらせ、あてこすり、よくいえば批評。
こんな態度は流行らないのではないか。

「半地下」という歌集をだしたとき、その時代の短歌の世界への批評のつもりで出したのを思い出した。
それを理解してくれた人は少なかった(が、いたのだ。ありがたい)と思う。
自分が作品をつくるとき、あるいは歌集をあむとき、どんな時も批評、批評で、疲れる。
しかし、それなしでは作品や歌集をあむことすらむずかしい。癖のようなものだ。
おおむね理解されないと思うことが多いのは、ほんとに理解されたいとは思っていないからかも知れない。
批評性というのは理解されたらある効力を失うという事があると思う。

↑しかしどうなのか…。とおして聞いたら何かくるしい気がしてきた。

くだんの歌集は寺山修司賞の候補になった。
それから2年後にはその賞自体がなくなった。

作品をつくる姿勢としてこういったものが当たり前であるという態度は未来という短歌結社の影響がつよい。
それがよかったのか、悪かったのかはわからない。