予備校時代からずっとくりかえし聴いている。飽きないのが不思議。
この曲の志しが好きだ
予備校時代からずっとくりかえし聴いている。飽きないのが不思議。
この曲の志しが好きだ
仕事中や車で流している曲。
Prefab Sprout – Electric Guitars
「 アンドロメダ・ハイツ」というアルバムの曲。
アルバム自体もロマンティックさが良い。恥ずかし気もない。
好きなようにやったのだろう。
この人言葉の選びかたがすごく丁寧。
※結社誌「未来」に書いた小田観蛍論を以下にあげておく。
小田観蛍は北海道で活躍した歌人、結社誌「新懇」主宰、中城ふみ子を輩出。
岩手県出身、啄木と同級生。
特に同郷人には知っておいて欲しい歌人。
小田観蛍は、中城ふみ子を生み出した潮音系の結社「新懇」を立ち上げ主宰した人である。前衛短歌の文脈では中城ふみ子の編んだ壮絶な物語の脇役のように扱われる事も多い。
北海道での厳しい生活を詠んだ『隠り沼』が有名だが、私が最初に出会い、魅せられたのは、『天象』という五番目の歌集だった。
月もわれもいまだ棺(ひつぎ)を持たざれば霊魂冷ゆるごとくさすらふ
霧の湾巨船点在し濃くあはき陰翳は距離の感度となれる
支笏湖(しこつこ)の水蒼々と層なして向きかふるとき鱒は光るか
精悍なる二羽の鷹にてあをぞらに光りひるがへり火と相搏(う)つ
掲出一首目は比較的有名な歌だが、このような大がかりな世界の捉え方は写実派の中からは出てこないものだろうし、好悪も分かれそうだ。私はと言えばこの手の大上段に構える野心を愛する者である。
掲出二首目は、私の特に好きな歌で、上句の描写が非常に映像的。深い霧に覆われた港湾に、巨大な船の影が淡淡と幽霊のように浮かんでいる。下句の「距離の感度となれる」という捉え方は直観的で、言葉のロジカルな動きを否み、心の動きのままに言葉を編んでいる。この歌を含む一連、「海の貌」は『天象』冒頭にある。
潮霧はややややに晴れ巨船泊(は)つなほ多くはつ湾内にして
號(さけ)びつつかぶさる波が蒼白(さうはく)の顔々となる幻覚に立ちぬ
虚無の眼の大きく蒼くわれを待つ海あり海をけふも見に来ぬ
来し方も行くへにもまた花ひとつ無きわが道を行かねばならず
自然の、そして、それを視ている自身の暗部を捉えようとする意志が見てとれる。
だが、こういった傾向の歌は、この歌集の一側面にすぎない。様々な手法が混在しているのがこの『天象』の魅力でもあるのだ。
たとえば、同じ歌集にこんな歌がある。
襖越しあそぶを聴けば五つ三つ年にもまして智慧ひびく子ら
かはゆきは二本の乳歯赤ら頬くびれし手足泣けば泣くとて
いわゆる孫歌というものだが、作者の体温を感じさせてあたたかな気持ちになる。この素直な系統の歌は、第一歌集『隠り沼』の主調であり、一時期は身を潜めるが、『天象』辺りから復活して来た作風である。いわば地の歌なのだ。
小田観蛍は作風の変遷が激しい歌人で、特にこの『天象』においては全く違った作風が同居していて面白い。この作風の混在、あるいは変遷については、山名康郎がその著者『小田観蛍』(北翔社刊)の中で以下のように指摘している。
観蛍は一つところにどっかと腰を据えることなく常に自分にまといつく古いものを鋭くはらい捨て、脱落、脱走しながら新しい世界を目指して揺れ動き世の大家の如く成熟しなかった。
あとがき
山名の指摘通り、安定を避け続けた所にこの作者の魅力がある。
歌が巧みな人なので一つの方法に殉ずる事もできただろうが、生涯それを選ばなかった。以下、小田観蛍の作風の変化を生前に出された六歌集を紹介しながら追っていきたい。
『隠り沼』が刊行されたのは大正八年、観蛍三十三歳の頃。北海道富良野の厳しい自然の中にあって妻を亡くし、男手ひとりで愛児を育てる姿が哀切な歌集である。歌集前半には愛する妻と子に恵まれた小生活が描かれる。
子を産みてすやすや眠る面瘠せの蚊帳ごしに白くうつくしくみゆ
振り放(さ)けて見ればまばゆき薄ら雲名残の雪はマントに降るも
我が井戸に水汲み去りし足の跡夕照り寒く雪に残るも
行き暮るる雪の里道そこここに子の泣く声の身にはこそ沁め
小夜くだちひとりめざめてしみじみと吾子の寝顔をみたりかはゆく
これらの歌に詠まれるようなつつましい小生活が「凶事」と題された一連から一変する。
吾がわく子何知るべきか抱(だ)かれゐて母が柩をよろこび見るも
夕まぐれ子を負ひ立ちて玻璃戸ごし見る裏山の雪はさびしき
吊りし灯のひかりおぼほし夜のくだち厨の土間に襁褓(むつき)あらふも
叱られて母を呼び泣くをさな子に母亡ければぞ我れも泣かゆる
たちどまり見入る道辺の流れ水人のいのちははかなかりけり
愛する妻の死によって観蛍を襲ったのは喪失の悲しみだけではなく、家事、とりわけ育児に係わる仕事であった。妻の葬儀から始まり、家事に追われ、子育てに追われる歌が多いのが特徴である。教員としての仕事も続けているのだから、いわゆるシングルファーザーとして多忙をきわめる事になる。
この歌集を特異なものにしているのは、家事全般をいきなり背負う事になった者の労苦を非常に率直に、直截的に表現している点であろう。
観蛍の第二歌集にあたる。上梓は昭和五年、観蛍四十四歳。それ以前に『「隠り沼」以後』があるが、こちらは百首あまりの小作品集で作風は『隠り沼』の延長線上にある。序数歌集にも加えられていないようなのでここでは取り上げない。『忍冬』から数首ひく。
うち見やる月のひろ野の末遠くしづみて山の浮かび出でたる
沼底にうつれる月は清くしてものにもつかず渡るなるかな
木の影のおのおのうつる西障子日のしづかさの沁みる冬なり
このような一つの形式に殉じた歌が大勢を占める。自然を題材にした歌はどれも巧みに韻律を整えられているが、その中に時折、人事を題材とした歌が入ってくる。
朝月におもひしのぶもかなしくて卵のからを捨つるうら藪
ゆるやかに御名(みな)をとなふる声そろひ戸口の下駄にかかるこな雪
新月の空青々と暮るれどもひとりぼそぼそと襁褓(むつき)あらへり
一首目は、母の死、二首目は、父の死、三首目は、再婚した妻が病を得て実家に帰った折の歌。ここに至ってもこの人はオムツを洗うのである。この妻の実家療養は長引き、妻が亡くなるまで観蛍は子供の世話に追われる事になったようだ。子育ての労苦を味わったせいか、後年の歌集においても子供を題材にした歌はいきいきと生彩を放ち、多くの男性歌人のそれとは一線を画す。
『忍冬』で観蛍の短歌はある形式における完成を得ていると思う。しくじりが無く安定しているのである。しくじりがない事を逆から見れば、突出した作品が減り、面白味が減るという事でもあるだろう。この作者はその事に自覚的であって、どうやら満足していないようだ。跋文にはこうある。
私は此の歌集を後にして、更に不断の精進に鞭うたうとする。(略)私は猶ほ踏み入るべき爾後の途に閉塞を感じないばかりか、一そうな希願と踊躍とを禁じ得ないのである。
昭和十九年、戦況が逼迫した状況の中で出された歌集である。観蛍五十八歳の第三歌集。
屋根の雪積むにまかせて垂れさがるつららは太し暗くこもれる
甲虫の飛べば浮かびて池の面に口そろへたる緋鯉の本能
こくこくと虧食(きしょく)に繊き日輪の肉眼にさへ見ゆるなり今
北斗七つ照れるゆふぞら霽れとほりうつつににごる霊を濯がす
天の川いよよななめに冴えて来て一線白き浪の突堤
掲出三首目は、日蝕が題材。
安定している点では、『忍冬』と同じだが、『忍冬』は微かなものへの志向性が強かったのに対して、こちらは雄大さ、あるいは強さへの志向性が強い。『忍冬』が「静」を志したとすればこちらは「動」という様に大まかに分ける事もできそうだ。
この歌集でも子供を詠んだ歌はやはり格別心に深く沁みる。
荒ら海のおとぞきこゆる父われのかひなに寝ねてあどけなき顔
いとし子やひとり石蹴りあそべるに掩ひかぶさる世の濛(くら)き雲
手筥などそこはかとなく残れどもわが子を家に見むよしもなし
二首目は暗い時局を反映、三首目は三女が嫁いだ時の歌で、その寂しさを抑制的に詠んでいる。また、時局を反映した歌では以下のようなものもある。
一つ緒によろづ代かけてつらぬけるみかどのくには弥栄(いやさか)なるらし
警報のひびきを呑みて港都いま船の灯もなき底冷えの闇
一首目の擬古調はこの時代ならではだが、この歌人の歌の巧みさは本物だろう。思ったよりは皇国賛美の歌が少ないが、もしかしたら生前に削ったのかも知れない。
戦後はじめての歌集で、観蛍六十五歳の第四歌集。昭和二十六年刊。この辺りから一つの歌集に様々な詠み方が同居しはじめて面白くなってくる。作者本人も跋文で以下のように書いている。
今度のこれは、傾向に於いて遥かに変移的であるといふことである。(略)尚ほ継続しさうであつた自分一個の作風のうへにも、かなりに鋭い反省を加へ、(略)現代といふ時代を生き抜かうとする態度に立つに至つたのである。
どのように「変移的」であったのか。幾つか歌を挙げてみる。
ビル街の切る一ところ色感の濃き蒼海と黒耀(て)る船と
向日葵は黄金盤をならべ立ち朝から昼のごとく陽暑し
此のあたり門はありしとたたずみて星は照れども五十とせ過ぎぬ
距離感の近き銀河をあふぎ居り身は北ぐにに住みふさふらし
二首目は「黄金盤」という把握が面白い。観蛍独自の表現か、あるいは当時流通していた表現だったのだろうか。
三首目は郷里に帰った時の歌。
観蛍は、明治十九年、岩手県久慈市(旧九戸郡)に生まれている。同年生まれには、岩手県盛岡市(旧日戸村)生まれの啄木がいる。更に言えば、その習作期には啄木が参加していた若山牧水の「創作」にも参加しているのだ。(『小田観蛍』)
同郷の同級生、更に同じ文学を志す者として啄木がいるという事実は、この歌人の表現に大きな影響を与えただろう。観蛍はこの頃すでに北海道新聞の歌壇選者を経験し、同地域で様々な賞も得ている。しかし、北海道の大家になっても、啄木という大きくなり過ぎた存在がこの人を揺るがし続けたのではないか。
この点については、次の歌集、『天象』に啄木へ言及した歌が参考になる。
皆すぐれ霊(たま)かがやくにわれのみは鈍(にぶ)きを鍛へなほも在りつつ
これは「啄木歌碑」と題された一連の作品で、以下のような詞書が付されている。
釧路市に啄木歌碑を訪ふ。碑歌は伯父の門人故佐藤男爵の揮毫、裏面の碑文は畏友石川定氏の物するところなり。三人とも我と郷国を同じうす。
この歌の「皆すぐれ」は、もちろん歌碑の建立に尽力した同郷人と、歌碑の主人公たる啄木にかかる。挨拶歌としても卑下しすぎであって、同郷の優れた人達が啄木という歌人を中心に集まった事に対する気後れのようなものを感じる。しかし、同時にこの人は「鈍(にぶ)きを鍛へ」ていると言っていて、自身の歌作について諦めてもいないのである。
掲出歌にもどる。四首目の「距離感の~」の歌は、歌碑がある。この歌についても山名康郎が『小田観蛍』の中で言及している。
終焉の地・小樽の天狗山麓三角山の歌碑に刻まれている〈距離感の近き銀河をあふぎをり身は北ぐにに住みふさふらし〉には中央から遠く離れた北の地に住んで生涯、華々しく歌壇に名を連ねることなく一地方歌人の存在に甘んじた口惜しさと、不退転の決意が込められていて思いは深い。
山名の指摘どおり、中央への屈折した思いが、彼の表現を安定的に一つの場所にとどめて置かなかったのではないかと思う。そのせいか、この歌人の作品は六十五歳を過ぎてから、山名のいう「脱落、脱走」が増え面白くなってくるのである。その晩年に至っても啄木歌碑の歌にある「鈍(にぶ)きを鍛へ」続けるのだ。
『天象』については冒頭で触れたので、六番目の歌集である『晩暉』について触れる。『晩暉』は昭和三十八年、観蛍七十七歳の歌集で、生前に出された『小田観蛍全歌集』(新星書房刊)に組み入れる形で発表された。気負いのない作品の中に時折、妖しい世界への志向が現れる。
日の照りてはららぐ雨に鈴なりの柿つやつやと赤きふる郷
雨まじりいや咲く風に花コスモスしばし閃けど外の闇深し
一湾は冷感となりアパートの幾棟の窓を陽は焼き焦がす
『忍冬』『蒼鷹』の意匠そのもののような作風から脱却し、不安定さが増していると思う。破綻が増え、破綻のすき間からこの作者の息づかいが漏れてくる。『「私」といふ一個の物』(『天象』跋)の本当の姿を追い求め、完成や成熟を拒んだ作者の辿り着いた作品群である。
掲出一首目のように自身を育んだ風土である故郷を詠んだ歌が多いのもこの歌集の特徴でもある。最後に帰郷の際に詠んだ歌から一首。
空の陽に大岩むらの久慈川はとどろきしぶき虹を立て立て
(初出、未来2017年6月号)
自身について考えるために書く。
海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても
率直にいうと、自作でありながら、私はこの歌が好きなのだ。
こういった瞬間は、恋愛の只中にあれば誰しも経験する事だと思う。ある甘やかないっとき。
それでいて、シチュエーションが出来過ぎているから、現実には無かった風景のようでもある。
こうあって欲しいが、永遠に(死ぬまで)かなわない風景。
もう少しこの世界に拘泥して描き切っておきたかった。
考えるために引き続き書く。専ら私ごとだが、私のブログだしアクセスも少ないので。
2004年に「ペイルグレーの海と空」を書いた意図は、自身にとっても複雑すぎて霧のようだ。
それが十年以上も私の深い処にひっかかり続けていて、落ち着かないのである。
海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても
冒頭の歌だがあまりに典型的な、型どおりの、しかし、ある型としては出来のいい部類の歌だ(と思う)。
作った当初から型どおりを意識していた。
この数年前に「ポップス」という連作を作っていたのを思い出す。
不倫する男女を主題にした連作で、ステロタイプな男女のどろどろを描いたものだった。
「ポップス」は不義の恋に身を焦がす男女の滑稽さを嘲笑する意図で書いた。気にいっていたがどこかにいっしまった。
「海音に~」の歌は、「ポップス」と同じように型どおりをめざしていながら、少なくとも作者はアイロニーを意図していない。
しかし、状況があまりにティピカルなので意地の悪い読み手がいたとしたら、アイロニーにもなり得るだろう。
海の近くが舞台なのは、ビーチボーイズの影響。
その頃は、型どおり、少しキツイ言い方だと、手垢のついた表現が重要だと思っていた。
ある表現が、手垢だらけになるのにはそれだけの理由がある、その表現が人間の本性にかなったものだからだ。
ザックリいうとこんな事を考えていた。
ついでに、だからこそ、現代詩が嫌いだった(今はそうではない)。
恋の歌で構成された作品集を編みたくて、最近、2000年代の作品を見直している。
短歌研究新人賞をとった「ペイルグレーの海と空」の頃。2004年の近辺。
過労死寸前まで追いこまれ、逃げるように仕事を辞めた時期だ。
ビーチボーイズのペットサウンズばかり聴いていた。
一日に何度も何度も聴く。それが毎日。
同居人はそれでこのアルバムが大嫌いになった。
呼気のたびに哀切な感情が雲のように沸く感じ。それでいて少しも押しつけがましくない感じ。
単純でいて単純でいてそばにいて単純でいてそばにいて
この歌はペットサウンズのDon’t Talk (Put Your Head On My Shoulder)という曲からインスパイアされた。
インスパイアとは大げさだな。
私はペットサウンズに魅せられるあまり、ペットサウンズをやりたかった。
(単純でいて‥はいい歌か?と問われると韻律に稚さが漂い微妙な部分がある。
だがその稚さは得がたいものだと今では思う。)
心身をおかしくして分かった事があった。
それ以前の冷笑的であったり、皮肉っぽい作品が自分にとって何のリアリティも無いという事である。
斜にかまえた態度は私の一時期の自意識を満足はさせたが、暴力的な現実に対してはバカバカしいほど無力であった。
(眠いのでやめるが続く、かもしれない)
今年だした第三歌集について、ありがたい事に多くの方に言及いただいております。
ブログ、サイト等で触れていただいたものを順不同(ほぼグーグルで調べた順)にてリンク
SNSで触れていただいた方にもありがとう!
noteー嵯峨直樹 『みずからの火』(角川書店) とみいえひろこさん
まだ、あるかも知れません(まだあるよ!という方、連絡フォームにてご連絡いただけたら助かります)
次は恋愛だけの歌集を編みたいなあと思ってます。
amazonの「みずからの火」のレビューに佐野波布一氏がレビューを寄せています。
率直にいうと、文学友達の批判を聞いている感じがしました。
少々人恋しい、懐かしい感慨めいたものもあります。
実に丁寧に読み、批判している、その熱に感動すると共に「そうじゃないんだよね」という思いも多く沸きました。
わたしの歌に対する批評について、言いたい事もありますがここは最小限にとどめます。
短歌は詩であると同時に歌であること、重複表現はわざとやる場合もあるということ、このくらいです。
このレビューは以下で締めくくられています。
しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、
そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、
僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。
この辺りは「文学に明日はない」と文学の明日の心配までされています。
私の表現を短歌界では「評価している」方が多い事を前提とされているようですが、これは間違いです。
「挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさ」。
この点↑は、私が短歌の世界で幾度となく批判されてきた事ですので、短歌界は健全です。
それにしても、この言葉は今まで批判された方の中でもっとも的確で丁寧な表現かも知れません。
といって私はこの手の純粋性への志向が強く、批判されても今さらやめられる類いのものでもありません。
文学の未来などに関わりなく、好きなようにやるだけです。
あと「40代にもなって」は余計でしょう!
年齢は関係ありませんよね。
それと、★が二つというのは何とかならないものか。
私のAmazonのレビューは以前の歌集を見て分かるとおり、レビューがつく事が少ないので、一つのレビューでこれをやられると非常に目立ち痛いのです。
もしこの記事をお読みならせめて★を三つ、欲を言えば四つにしてください。
1、「短歌の虚構問題」
最近の話題といえば、「短歌の虚構問題」だろう。
昨年の短歌研究新人賞は、父親の死を題材にした石井僚一が受賞した。
父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
ふれてみても、つめたく、つめたい、だけ、ただ、ただ、父の、死、これ、が、これ、が、が、が、が、
火葬炉の釦は硬し性交の後(のち)に生まるる我等を思う
ネクタイは締めるものではなく解(ほど)くものだと言いし父の横顔
「父親のような雨に打たれて」短歌研究2014.9
ところが、作者がこの父は実は存命であり死んだのは祖父だったと地方新聞に打ち明けた事から騒動ははじまる。最も熱心にこの一連を推した加藤治郎は、その責任感から新人賞発表の次の号に「虚構の議論へ」という一文を寄せている。
私は、選考委員の一人であり当事者である。「短歌研究」の読者への説明責任があると考える。
「虚構の議論へ」短歌研究2014.10
自身の責任を明確にした一文で、率直に評価すべきだろう。新人というのは、短歌の世界でもっとも弱い存在である。新人賞の受賞作が出る度に、その瑕疵を批判する人は多いが、選考委員を批判する人はどういうわけか少ない。新人の作品は、もとより選考委員によって選ばれなければ俎上にも載らないのだ。弱い新人を下手だ下手だといって(当たり前だ。新人なのだから)、おしまい、という事で済まされる問題ではないのは明らかだろう。
受賞者の歌論が展開され、虚構の議論が復活するかも知れない。すべて可能性である。
「虚構の議論へ」短歌研究 2014.10
加藤は、この一文をこう結んでいる。受賞者の歌論はいまだ展開されていないが、「虚構の議論へ」という加藤の狙いどおり「短歌の虚構問題」について世代を問わず活発な議論が出てきている。二十代、三十代の口語短歌と中高齢層との断絶が言われて久しいが、この「短歌の虚構問題」は世代間を繋ぐ触媒として機能しはじめているようである。
2、世代間の断絶とは何か
角川の短歌年鑑(平成27年版)では、「短歌は世代を超えられるか」という座談会を行っていて面白く読んだ。参加者らが、「近代~現代短歌の流れを汲む歌」と思うものと、「これまでの流れとは切れていると感じる歌」を持ち寄って議論している。二十代、三十代の「これまでの流れとは切れていると感じる歌」をどう扱うかを考えさせられる好企画である。
こういった世代による価値観の違いをどう超えるのか。そのヒントになるのが短歌研究11月号の「作品季評」である。
森本平が、若手に人気の吉岡太朗の歌集『ひだりききの機械』を小池光といっしょになってこき下ろしている。あまりにひどい言いようなので若手からの反応は最悪だが、こういった率直さだけが異なる価値観の者同士のコミュニケーションの端緒ではないだろうか。
若手と関わるのが面倒くさいが為の黙殺、若手の歌が分からないのは恥ずかしいので分かったフリ、若手の歌が苦手なゆえの無関心の装い。これらが世代間の分裂を強化させてきたと思うのである。
3、二つの共同体
学生短歌会を中心として、インターネットを中心に交流を深める若手歌人。団塊より上の世代を頂点とし、団塊の世代を中心とする歌壇の共同体。この2つの共同体が分断しているのがここ最近の最も深刻な問題だろうと思う。
インターネットや大学のサークルからは、若者が口語短歌を短歌だと思って流入してくる。他方で、主に新聞歌壇やカルチャーセンターを経由して高齢層が万葉集などの和歌を短歌だと思って流入してくる。短歌の高齢化が長く叫ばれているがそれは違う。若い頃から短歌をやっていた人が老いるのではなく、若い頃関心がなかった人が高齢になって相次いで流入してくるので、歌壇は常に高齢層が厚い。
私の印象では、この二つの共同体はどちらもかなり内向きである。お互い関わらない分には、どちらもそれなりに楽しくやっている。しかし、もうお互い無視をできる間柄でもないだろう。両者を繋ぐ事ができるのはただただ率直さであろうと思うのだ。
横浜歌人会会報第111号(2015年1月)