手垢のついた表現について

考えるために引き続き書く。専ら私ごとだが、私のブログだしアクセスも少ないので。

2004年に「ペイルグレーの海と空」を書いた意図は、自身にとっても複雑すぎて霧のようだ。
それが十年以上も私の深い処にひっかかり続けていて、落ち着かないのである。

海音にふたりの部屋は閉ざされてもういい何も話さなくても

冒頭の歌だがあまりに典型的な、型どおりの、しかし、ある型としては出来のいい部類の歌だ(と思う)。
作った当初から型どおりを意識していた。

この数年前に「ポップス」という連作を作っていたのを思い出す。
不倫する男女を主題にした連作で、ステロタイプな男女のどろどろを描いたものだった。
「ポップス」は不義の恋に身を焦がす男女の滑稽さを嘲笑する意図で書いた。気にいっていたがどこかにいっしまった。

「海音に~」の歌は、「ポップス」と同じように型どおりをめざしていながら、少なくとも作者はアイロニーを意図していない。
しかし、状況があまりにティピカルなので意地の悪い読み手がいたとしたら、アイロニーにもなり得るだろう。

海の近くが舞台なのは、ビーチボーイズの影響。
その頃は、型どおり、少しキツイ言い方だと、手垢のついた表現が重要だと思っていた。
ある表現が、手垢だらけになるのにはそれだけの理由がある、その表現が人間の本性にかなったものだからだ。
ザックリいうとこんな事を考えていた。

ついでに、だからこそ、現代詩が嫌いだった(今はそうではない)。